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第16話 二度目の合図

第16話 二度目の合図


彼女編


 今日は、作業の改善について何人かで話し合っていた。


「だからね、ここを変えれば、毎回持ち替えなくても済むと思うの」


 私が説明すると、彼が資料を覗き込んだ。


「なるほどねぇ。持ち替える動作そのものをなくすわけだ」


「そう! そのほうが作業も楽になるでしょう?」


「うん。実際に試してみる価値はありそうだねぇ」


 彼が楽しそうに笑った。


 ……ふふ。


 こういう話をしているときは、私も自然に言葉が出る。


 気づいたことも、まだ気になっていることも、次々に話したくなる。


「ただ、やってみたら別の問題が出るかもしれなくてね」


「ははっ。そこも含めて、試す楽しみがあるじゃないか」


「ふふっ! そうなんだよね!」


 やがて休憩時間になり、みんなが資料を片づけ始めた。


「じゃあ、続きはまた現場で」


「はい、お疲れさまです」


 一人、また一人と会議室を出ていく。


 私は手元の資料を揃えていた。少し遅れて顔を上げると、彼はまだ椅子に座っていた。


「……あれ? 休憩行かないの?」


「ふふ。もう少しここでのんびりしようかと思ってねぇ」


 彼は机に肘をつくでもなく、ゆったりと笑っている。


 ……そっか。


 それじゃあ、私ももう少し。


 私は椅子に座り直した。


「いやぁ、さっきの改善案、なかなか面白かったねぇ」


「うん! 早く試してみたいなぁ」


「君がずいぶん楽しそうに説明するものだから、俺まで結果が待ち遠しくなっちゃったよ」


「ふふっ! うまくいくといいね」


 彼が声を上げて笑った。


 ……ああ、楽しい。


 何の気負いもなく、こんなふうにおしゃべりできる。


 仕事の話がひと段落したころ、彼がふっと目を細めた。


「……そういえば」


「うん?」


「先日のハンカチ返却式のことなんだけど」


 …………!


 あ。


 急に、そっち!?


「いやぁ、あの続編は実に素晴らしい式典だったねぇ」


「……もう!」


「ふふ。主催者としても、大変満足しているんだよ」


「主催者って!」


「何しろ、念願が叶ったものだからねぇ」


 …………。


 あ。


 念願、って。


 ……抱きしめたかったこと?


 彼が、少し得意げに笑った。


「君も、嬉しかったでしょう?」


「……うん」


「ははっ。やっぱりねぇ」


 彼は嬉しそうに頷く。


「いやぁ、こうしてご本人からお墨付きをいただけるとは。開催した甲斐があったというものだ」


「ふふっ! 何それ!」


 私が笑うと、彼も楽しそうに笑った。


 ……ああ。


 また、あの顔。


 本当に楽しそう。


「もっとも」


 彼が少し声を落とした。


「俺は、たった数秒であんなに嬉しくなれるとは思っていなかったよ」


 …………。


 え。


 ……そんなに?


「……ふふ」


「おや。照れちゃった?」


 …………!


 ああ、もう!


 私は両手で顔を隠した。


 ……恥ずかしい!


 でも、嬉しい。


 ……ああ、すごく嬉しい。


「ははっ。おやおや、隠れてしまった」


 彼の笑い声が聞こえる。


「いやぁ、困ったなぁ。せっかく嬉しそうな顔をしてくれていたのに」


 ……もう!


 そんなこと言われたら、余計に出られないよ!


「……ふふ。とはいえ」


 少しだけ間を置いて、彼が続けた。


「君がそんなふうに照れてくれるのも、俺はなかなか嬉しいんだけどねぇ」


 …………!


 ああ。また!


 私は顔を隠したまま、思わず笑ってしまった。


「……ふふっ」


「おや。笑ってくれた」


 ……もう。聞こえちゃった。


「じゃあ、もう一つだけ教えてもらおうかな」


 …………。


 えっ。まだ?


「この間、俺が抱きしめたいって言ったとき……」


 …………!


 待って。その話、まだ続くの!?


「君、ずいぶん嬉しそうに頷いてくれたでしょう?」


 ……うん。そうだよ。


「……あのとき、俺から言い出してよかったなぁって思ったんだ」


 …………。


 あ。


 ……彼も?


 彼も、言ってよかったって思ったの?


「もし俺が何も言わなかったら、あんな嬉しい返事をもらえなかったものねぇ」


 …………。


 ああ、ずるい。


 そんなこと、嬉しいに決まってる。


 私は顔を隠したまま、小さく頷いた。


「……おや。今、頷いてくれた?」


「……うん」


「ふふ。嬉しいなぁ」


 ……ああ。また。


 嬉しいって、彼が自分から言ってくれる。


 私、こういうところが大好きなんだ。


「それにしても、今日はずいぶん長いお隠れだねぇ」


「……もう」


「ははっ。失礼。俺がなかなか帰して差し上げないものだから」


 …………。


 あ。そういう言い方!


 私は思わず指の隙間から彼を覗いた。


 彼が楽しそうに目を細める。


「……おや。見つかってしまった」


「……ふふっ!」


「ふふ。おかえり」


 ああ、もう。


 私はゆっくり手を下ろした。


 彼は嬉しそうに私を見ていた。


「いやぁ、今日も実にいい顔を見せてもらったねぇ」


 ……また!


「……もう、見すぎだよ」


 思わず言うと、彼が目を丸くした。


 それから、ぱっと笑った。


「ははっ! それは失礼」


 ……ふふ。言えちゃった。


 彼は少し考えるふりをした。


「しかし、困ったことにねぇ」


「……ん?」


「見れば見るほど、もっと見たくなるんだよ」


 …………!!


 えっ。……何それ。


 もう!


「……ふふ。これはなかなか重症かもしれない」


 彼は胸に手を当て、大げさに首を振った。


 ……ああ。格好つけちゃって!


 楽しそうに笑っちゃって!


 嬉しい。嬉しいけど……!


 そんなふうに話しているうちに、そろそろ休憩が終わる時間になっていた。


「……あ。もう戻らなきゃ」


「おや、もうそんな時間か」


 彼が時計を見た。


「いやぁ、楽しい時間というのは早いねぇ」


「ふふっ、ほんとだね」


 二人で椅子から立ち上がる。


 彼が資料を手に取ろうとして、ふとこちらを見た。


「……そうだ。もう一つ、試してみたいことがあるんだけど」


「……え?」


「この間は、二人で座っていたでしょう?」


 …………。


 あ。この間?


「ほら、ハンカチ返却式の続編」


 …………!


 あっ! ハグ!


「いやぁ、あれは実に嬉しかったんだけどねぇ」


 彼は少し得意げに笑った。


「座っていると、どうしても少し距離があったから」


 …………。


 え? 距離?


 彼が、立っている私を見て楽しそうに続けた。


「今度は、こうして立っているときに――」


 …………!!


 あっ。待って。


 それって、立ったままハグ!?


 ……今、ここで!?


 嬉しい!


 ……でも、ここ会社!!


 もうすぐ休憩も終わっちゃう!


 最後まで聞いちゃったら、私、きっとまた「うん」って答えちゃう!


 ……待って!!


 私はぱっと片手を上げた。


 彼がぴたりと言葉を止める。


「……おっと」


 それから、私の手を見て、ふっと笑った。


「ここまでだね」


 少し残念そうに肩をすくめる。


「ふふ。承知いたしました」


 …………。


 ああ。止まってくれた。


 ……よかった。


 彼は資料を手に取りながら、なんとも楽しそうに笑った。


「いやぁ、惜しいところだったねぇ」


「……もう!」


「ははっ!」


 ……絶対、楽しんでる!


 でも、彼はふっと穏やかな声になった。


「……ありがとう。また教えてくれたね」


「……え?」


「待ってほしいって」


 …………。


 あ。そうだ。


 私、また自分で伝えられた。


「……うん」


「ふふ。助かったよ。俺も安心して君とのおしゃべりを楽しめるからねぇ」


 ……ああ。


 嬉しいな。


 止めても、いいんだ。


 彼は扉を開けて、私を振り返った。


「さて。仕事に戻ろうか」


「……うん!」


 二人で会議室を出た。


 彼はいつもどおり、涼しい顔で歩いている。


 ……でも。


 さっきの続き。


 ……今、ここでハグしようとしてたのかな。


 それとも、またからかわれただけ?


 私はこっそり彼を見た。


 彼は、どこか楽しそうだった。


 ……もう。


 やっぱり、絶対楽しんでる!


 でも、私も笑ってしまった。


 ……ふふ。


 今日も、楽しかったな。



言えなくても、少しだけ | 第16話


* 彼の帰り道ならぬ、会議室の内心 *


 いやぁ、今日の打ち合わせは面白かったねぇ。


 彼女の改善案には、なかなか筋が通っていた。


 今ある動作を少し速くするんじゃなくて、その動作自体をなくそうという話だ。


 しかも、彼女が実に楽しそうに説明する。


 ああいう顔をして話しているときの彼女は、よく喋る。


 自分で気づいたこと、試してみたいこと、まだ確かめられていないこと。


 言葉が次々と出てくる。


 ……ふふ。いいねぇ。


 俺も、ああいう話を聞くのは好きだ。


「じゃあ、続きはまた現場で」


 ほかの人たちが席を立ち始めた。


 彼女はまだ手元の資料を揃えている。


 ……さて。


 急ぐ用事もないことだし、もう少しここにいようか。


 彼女が顔を上げた。


「……あれ? 休憩行かないの?」


「ふふ。もう少しここでのんびりしようかと思ってねぇ」


 彼女は少し嬉しそうにして、椅子に座り直した。


 ……ふふ。もう少し話せるらしい。


 ありがたいことだ。


 そこから、また仕事の話が始まった。


 彼女の楽しそうな声につられて、俺もずいぶん笑ってしまった。


 それがひと段落したところで、ふと先日のことを思い出した。


 ハンカチ返却式、第二幕。


 ……いやぁ。


 あれは本当に嬉しかった。


 俺が抱きしめたいと言って、彼女が頷いてくれた。


 数秒だけ、そっと腕を回した。


 座ったままだったから、思ったより距離はあったけれど。


 終わったあと、彼女は嬉しかったと教えてくれた。


 ……ふふ。


 思い出すだけで、なかなか気分がいい。


 少しくらい、この話をしてみてもいいだろう。


「……そういえば、先日のハンカチ返却式のことなんだけど」


 彼女がぴたりと止まった。


 ……おや。いい反応だねぇ。


 俺は思わず笑ってしまった。


 そこからの会話は、実に楽しかった。


 彼女は笑ったり、照れたり、顔を隠したり。


 顔を隠したまま、小さく笑うこともある。


 ……ふふ。


 ああ、嬉しいねぇ。


 俺の言葉を、そんなに大事に受け取ってくれる。


 それがわかると、ついもう一言、話したくなるんだよねぇ。


 顔を隠していても、笑ってくれる。


 頷いてもくれる。


 だから、もう少しだけ。


 ……もっとも、今日は会社だ。


 そろそろ戻る時間だし、俺のほうでも加減しなければねぇ。


「……あ。もう戻らなきゃ」


「おや、もうそんな時間か」


 二人で立ち上がった。


 彼女が椅子を机に戻す。


 その姿を見たとき、ふと考えた。


 ……そういえば。


 あの日のハグは、ベンチに座ったままだったねぇ。


 肩に腕を回して、ほんの数秒。


 彼女との間には、少し隙間があった。


 ……立っていたら、どうだっただろう。


 向かい合って。


 もう少し近くに寄って。


 ……ああ。それも、いいねぇ。


 俺は彼女を見た。


 今、こうして立っている。


 ……ふふ。


 なるほど。


 次に叶えたい願いが、ひとつ見つかってしまったらしい。


 それなら、お願いしてみようか。


 今ここで、というつもりはない。


 ここは会社の会議室だし、休憩も終わる。


 でも、次に二人で出かけるとき。


 立ったまま、抱きしめてもいいだろうか。


 ……どんな返事をくれるだろうねぇ。


「……そうだ。もう一つ、試してみたいことがあるんだけど」


「……え?」


「この間は、二人で座っていたでしょう?」


 彼女が不思議そうに首を傾げた。


「ほら、ハンカチ返却式の続編」


 ……あ。


 思い出したねぇ。


「いやぁ、あれは実に嬉しかったんだけどねぇ」


 彼女の頬が、少し赤くなる。


「座っていると、どうしても少し距離があったから」


 ……おや。今度は何か考え始めたねぇ。


「今度は、こうして立っているときに――」


 その瞬間。


 彼女の手が、ぱっと上がった。


 ……おっと。


 俺はすぐに言葉を止めた。


「……ここまでだね」


 少し肩をすくめる。


「ふふ。承知いたしました」


 彼女は、目に見えてほっとした顔をした。


 ……おや。


 ずいぶん慌てていたねぇ。


 俺は今の会話を少し思い返した。


 座っていると距離があったから。


 今度は、こうして立っているときに。


 …………。


 あ。


 ……もしかして、今ここで抱きしめると思った?


 ……ははっ!


 いやぁ、それは慌てるだろうねぇ。


 ここ、会社だもの。


 俺としては、次に二人で出かけるときにお願いしてみるつもりだったんだけど。


 ……ふふ。どうやら、少々言葉が足りなかったらしい。


 そう考えると、つい笑ってしまう。


 しかし、手を上げた彼女に今さら続きを説明するのも違うだろう。


 ちゃんと「待って」と伝えてくれたんだから。


 俺もそこでやめればいい。


「いやぁ、惜しいところだったねぇ」


「……もう!」


「ははっ!」


 ……ああ、楽しい。


 それに、嬉しいねぇ。


 あの花の公園で、初めて「待って」と教えてくれた。


 そして今日も。


 これで二度目だ。


 あの手は、偶然の仕草じゃなかったんだねぇ。


 彼女が、自分から使える合図になった。


 ……ふふ。


 ありがとう、と伝えたくなる。


 もちろん、まだわからないこともある。


 彼女は会社だから慌てたんだろうか。


 それとも、抱きしめること自体がまだ恥ずかしかったんだろうか。


 ……さて。


 そこまでは、まだわからないねぇ。


 ただ、俺の言葉を途中で止めてもいいと、彼女が思ってくれたこと。


 それは確かに嬉しかった。


 だったら次は、少し聞いてみようか。


 彼女が楽しいと思ってくれている間は、もう少しからかってもいいのかって。


 もちろん、手が上がれば、そこでおしまい。


 俺のほうでもちゃんと気をつけながら。


 ……ふふ。


 その合図があるなら、俺も少し安心して欲張れるかもしれないねぇ。


 俺は資料を持って、会議室の扉を開けた。


「さて。仕事に戻ろうか」


「……うん!」


 彼女が笑って、隣に並んだ。


 ……ああ。


 それにしても。


 立ったままのハグ、か。


 今度は、誤解されないように伝えよう。


 「次のデートで、立ったまま抱きしめてもいい?」


 ……ふふ。


 それも、なかなか楽しみな質問だねぇ。


 どうやら俺の欲張りは、まだしばらく続きそうだ。

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