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第15話 もう少し、待って

第15話 もう少し、待って


彼女編


今日は、なんだか身体が重い。


朝起きたときから、お腹のあたりが痛くて、動き出すまでに少し時間がかかった。


気持ちも、少し沈んでいる。


……ああ。


このあいだの映画デートは、あんなに楽しかったのになぁ。


映画を観て、いっぱいおしゃべりして、手までつないでもらって。


あんなに幸せだったのに、最後にはまだ帰りたくないなんて思っちゃった。


……欲張りだったなぁ、私。


今日は、そんなふうに思う元気もあまりない。


でも。


彼には会いたい。


……うん。


それだけは、ちゃんとある。


今日は花を見に行く約束をしていた。広い公園だけど、入り口の近くにも花壇がある。あまり歩けなくても、きっと大丈夫。


……たぶん。


少しだけ身支度を整えて、私は家を出た。


*


「おはよう」


彼が私を見つけて笑った。


「……おはよう」


「ふふ。今日はずいぶんいい天気だねぇ」


「……うん。お花、綺麗に見えそう」


「それは楽しみだ」


彼はいつもどおり楽しそうだった。


……ああ。


よかった。


今日も、あの笑顔が見られた。


公園に入ると、花壇には色とりどりの花が咲いていた。風が吹くたびに、小さな花びらが揺れている。


「いやぁ、見事なものだねぇ」


「……うん」


綺麗だな。あっちのピンクの花も見たい。


でも、少し歩いただけで身体が重く感じる。私は無意識に歩く速度を落とした。


彼も、隣でゆっくり歩いている。


「……おや」


「……ん?」


彼がこちらを見た。


「今日は、ちょっと体調がよくない?」


……あ。


気づいたんだ。


私は小さく頷いた。


「……うん。ちょっとだけ」


「そっか」


彼は穏やかに頷いた。


「じゃあ、あそこのベンチで少し休もうか。花もよく見えそうだし」


「……うん」


……よかった。


何が痛いのかとか、詳しく聞かれなかった。心配してくれているのはわかる。でも、今日は彼とお花を見たい。体調の話ばかりになっちゃうのは、ちょっと嫌だった。


*


ベンチに座ると、少し楽になった。


目の前には、小さな花が一面に広がっている。隣では彼が、ゆったりと背もたれに寄りかかっていた。


「いやぁ、なかなかいい席だねぇ」


「……ふふ。そうだね」


「ここなら、花のほうから見に来てくれそうだ」


「……え?」


「ほら、風が吹くたびに、こっちへお辞儀してくれるだろう?」


ちょうどそのとき、風が吹いた。花がいっせいに揺れる。


「……ふふっ!」


ああ、もう。そんなこと言うんだから。


「みんなでお辞儀してるね」


「うん。ずいぶん礼儀正しい花たちだ」


「……ふふ!」


彼も笑った。


……よかった。


いつもの彼だ。体調が悪いって答えたからといって、ずっと心配そうな顔をしているわけじゃない。普通に冗談を言って、楽しそうにしてくれる。


それが、なんだか嬉しかった。


「……おや。ちょっと安心した?」


彼が私を見る。口元には、少し得意げな笑み。


……あ。


そう。安心した。


「……うん」


「ふふ。今日も一問正解だねぇ」


「……ふふっ」


もう。こんな日でも当ててくれるんだ。嬉しいな。


*


しばらくして、私はピンクの花壇を指さした。


「あっちのお花、可愛いね」


「おや。やっぱりピンクがお気に入り?」


「ふふっ、もちろん!」


「ははっ! 迷いがなくて結構!」


彼が楽しそうに笑う。私もつられて笑ってしまった。


身体は重いけれど、座っているぶんには大丈夫。おしゃべりもできるし、こうして冗談も言える。


……ああ。嬉しいな。


「……ねえ、あのお花、なんだかあなたみたい」


「ほう? どれだい?」


「あそこ。ひとつだけ、すごく背が高いの!」


「ははっ! なるほど、なかなか目立ちたがり屋の花だねぇ」


「ふふっ! そうそう!」


「いやぁ、君に見つけてもらえるなら、目立った甲斐があったというものだ」


「もう! お花の気持ちまでわかっちゃうの?」


「ふふ。今のところ、君の気持ちのほうが少し得意かな」


…………。


あ。また、そういうこと言う!


「……もう」


彼が得意げに笑った。


……ふふ。楽しいなぁ。


そうして、しばらく話していた。花の名前を見つけたり、風に揺れる様子を眺めたり。時々、何も話さずに座っていた。


でも、その時間も気持ちよかった。彼は本当にくつろいでいるみたいだった。


少しして、彼が時計を見た。


「……そうだねぇ。今日は少し早めに帰ろうか」


…………えっ。


帰る? もう?


私は思わず彼を見上げた。


……待って。まだ一緒にいたい。


でも、今日は体調がよくないのも本当で。彼が心配してくれているのもわかる。


……だから。


「……うん」


そう答えようとしたとき。


「……おや」


彼が、ふっと笑った。


「その顔」


「……え?」


「ふふ。久しぶりに見たねぇ」


……顔? 私、どんな顔してた?


彼は少し懐かしそうに目を細めた。


「前にも見たことがあるんだよ。君がちょっと困ったときの顔」


…………!


あ。また見つけられちゃった。


「何か言いたそうなんだけど、どう言おうか迷ってる……そんな顔かな」


彼は、少し考えるように首を傾げた。


「さて。今回は……帰るのが、あまり嬉しくなかった?」


……ああ。そうなの。


「……うん」


「ふふ。じゃあ、もう少し一緒にいたかった?」


「……うん」


彼が、ぱっと嬉しそうに笑った。


「……そっか」


それから花壇へ視線を向ける。


「俺もまだ話し足りないところだったんだよねぇ。座っているほうが楽なら、もう少しここにいようか」


「……うん!」


……ああ。嬉しい。


彼も、まだ一緒にいたいって思ってくれた。


「……嬉しい」


思わず、声が出た。


「おや」


彼がこちらを向いた。ちょっと得意げな笑顔。


「今のは、自分から言えたねぇ」


「……あっ」


……ほんとだ。嬉しいって、言っちゃった。


彼は嬉しそうに笑った。


「ふふ。聞けて嬉しいよ」


……ああ。好きだなぁ。


彼は、私がうまく言えなくても、気持ちを見つけてくれる。でも、自分から言えたときには、こうして喜んでくれる。


今日はあまり歩けないけれど、ここで一緒に笑っていられる。それだけで、とっても楽しい。


*


風が少し弱まった。さっきまで揺れていた花たちが、静かになっている。


遠くには何人か人がいるけれど、この花壇の近くには誰もいなかった。


「……静かだねぇ」


彼がぽつりと言った。


「……うん」


「この辺り、俺たちだけみたいだ」


…………。


あ。その言葉。


前にも、聞いたことがある。


あのときも、彼と二人で。頑張って普通に話そうとして、うまくできなくなって。どうしていいかわからなくなった私に、彼は静かな時間をくれた。


……ああ。覚えてる。


私はそっと彼を見上げた。彼は花壇を眺めて、穏やかに笑っていた。


「今日は、来てくれてありがとう」


「……え?」


「身体が重いなか、会いに来てくれたんだろう?」


…………。


あ。そうだけど。でも、私が会いたかったんだよ。


「……うん。でも、私も会いたかったから」


「ふふ。そっか」


彼が嬉しそうに笑った。


「それは、ますます嬉しいねぇ」


……ああ。また。そうやって嬉しそうにしてくれる。


「……でもね」


彼は少しだけこちらを向いた。


「今日は、よく頑張ったね」


…………。


あ。頑張った、って。


そんな。何もしてないよ。ただ、会いに来ただけなのに。


……でも。そう言ってくれるの、嬉しいな。


私は膝の上で、そっと手を重ねた。何か言いたいけれど、うまく言葉が出ない。


すると彼が、少し楽しそうに目を細めた。


「……そういえば、以前、盛大な式典を執り行ったことがあったねぇ」


「……式典?」


「おや。お忘れかな?」


彼が胸に手を当てる。


「ハンカチ返却式だよ」


「……あっ!」


覚えてる! もちろん覚えてる!


あのとき、彼がおかしなことを言い始めて。私、最後まで聞かずに「うん、いいよ!」って答えちゃったんだ。


……ああ、もう! 思い出したら、ちょっと恥ずかしくなってきた。


「ははっ。思い出した?」


「……うん!」


「いやぁ、あの式典では実に嬉しいお返事をいただいてねぇ」


彼は恭しく頭を下げた。


「そこで本日は、続編をご提案したい」


「……続編?」


「ふふ。今度はハンカチではなく、この俺をぎゅーっと、というのはいかがでしょう?」


…………!


えっ。……彼を? ぎゅーっと?


ああ、もう。そんなこと、急に言うんだから。


彼は私の顔を見て、少し笑った。それから、いつもの口調に戻る。


「……もっとも、今日は俺のほうが抱きしめたいんだけどねぇ」


…………。


あ。彼が? 私を?


……嬉しい。すごく。


彼が、抱きしめたいって思ってくれた。私に何かしてほしいんじゃなくて。彼のほうが、そうしたいって。


彼は少しだけ声を柔らかくした。


「……いいかな?」


私は小さく頷いた。


「……うん」


彼の口元に、嬉しそうな笑みが浮かんだ。


「ふふ。ありがとう」


彼が少し身体をこちらへ向ける。それから、そっと近づいてきた。


……あ。近い。


さっきまで隣に座っていた彼が、今はすぐそばにいる。


肩に、ふわりと腕が回った。もう片方の腕も、軽く私を包む。


座ったままだから、少し身体の間に隙間がある。


それでも。


……ああ。抱きしめてもらってる。


私、何もしてない。ただ座っているだけ。


……どうしよう。


ほんの数秒で、彼の腕がそっと離れた。彼が元の位置へ戻る。


……あれ。もう?


……ハグって、こんなにあっという間なんだ。


でも。


嬉しかった。……すごく。


私は彼を見上げた。彼は、なんとも満足そうに笑っていた。


「……ふふ。いやぁ、嬉しいねぇ」


ちょっと得意げな顔。まるで、大きな仕事を成し遂げたみたいに。


……ああ。そんなに嬉しかったの?


「今日は、なかなかいい日になったなぁ」


…………。


あ。私も。私も、そう思う。


彼が少し首を傾げた。


「……おや。今のも、嬉しかった?」


「……うん!」


「ははっ。そりゃあよかった」


彼は満足そうに笑った。


……ふふ。ああ。幸せだなぁ。


さっきまでと同じ花壇なのに、なんだか少し違って見える。


*


それからしばらく、二人で花を眺めていた。


彼は何事もなかったように、また花の話を始める。私も、少しずついつもの調子に戻ってきた。


でも、ときどきさっきのことを思い出してしまう。


……抱きしめてもらっちゃった。


ほんの数秒だったけど。


……ふふ。嬉しかったなぁ。


「……おや」


彼がこちらを見る。


「何か面白いことでも思い出した?」


「……ふふ。ちょっと」


「ほう。俺にも聞かせてもらえるかな?」


「……えっと」


……あ。これは、まだ言えない。


「……内緒」


彼が目を丸くした。それから、楽しそうに笑う。


「ははっ! おやおや、秘密を持たれてしまった」


「ふふっ!」


「それは残念。名探偵としては、ぜひ解き明かしたいところだねぇ」


「……ふふ。名探偵なの?」


「おっと。そういえば、名探偵は君の役職だったねぇ」


「ふふっ! そうだよ!」


「ははっ! 失礼。どうやらポップコーン隊長、他人の肩書きまで欲張ってしまったらしい」


「もう! それじゃあ、隊長が犯人になっちゃうよ!」


「なんと! 名探偵殿に見破られてしまったか!」


二人で笑った。


ああ。楽しい。


今日は遠くまで歩けなかったけれど、こうしておしゃべりできる。それが嬉しかった。


「……そういえば」


「うん?」


「今日はお花を見に来たんだったねぇ」


「ふふっ! そうだよ?」


「いやぁ、どうも困ったことに」


彼が、わざと申し訳なさそうに胸に手を当てた。


「俺は今日、花より隣を見ていた時間のほうが長かった気がする」


…………。


え。隣って。……私?


「花の皆様には、誠に申し訳ないことをしたねぇ」


「……もう!」


彼は楽しそうに笑った。


「ははっ! いやぁ、せっかく綺麗に咲いてくれたのにね」


ああ、もう。そういうこと、言っちゃうんだから!


嬉しい。


しかも、またあんなに楽しそうに笑ってる。


……ふふ。


「……さては、さっきのも嬉しかったでしょう?」


「……うん!」


「ははっ! やっぱりねぇ」


彼が少し得意げに笑った。


「いやぁ、最近は君の嬉しい『うん』なら、なかなかの正答率だと思うんだよねぇ」


「ふふっ! そうかも!」


彼が胸に手を当てた。


「おや。ご本人のお墨付きをいただけるとは。光栄の極みです」


……ふふっ! またお芝居しちゃって。


「では、せっかくですから、もう一問」


「……ん?」


彼が私を見て、楽しそうに目を細めた。


「今の君は、もう少し俺に構ってほしかったりするのかな?」


…………!


え。それ。


……ああ。そうなの。もっと構ってほしい。


でも。そんなことまで当てられちゃうの!?


恥ずかしい。嬉しい。どうしよう。


私は思わず、両手で顔を覆った。


……あああ。もう。


彼が小さく笑う声が聞こえた。


「……ふふ」


それから、何も言わなくなった。


……あ。待っててくれるんだ。


私は顔を隠したまま、さっきの言葉を繰り返した。


もう少し、俺に構ってほしかったりするのかな?


……うん。そうなの。


そう思ってくれたことも、嬉しかった。でも、まだ顔を上げられない。


しばらくして、そっと指を開いた。彼は隣で、ゆったり座っていた。


……ふふ。楽しそうな顔。


私が顔を隠してしまっても、変わらずにいてくれる。


少し安心して、ゆっくり手を下ろした。


彼と目が合う。


「……おかえり」


「……もう」


「ははっ!」


彼は心から楽しそうに笑った。


「いやぁ、今日もいい顔を見せてもらったなぁ」


……ああ。そんなふうに思ってくれてたんだ。


彼は、まだ少し楽しそうに私を見ていた。


「君がもう少し見せてくれるなら、俺はまだまだ嬉しくなっちゃいそうだけど」


…………!


え。まだ、嬉しくなるの? 私が?


……ああ。もう。格好いい。嬉しい。


でも、ちょっと待って。これ以上言われたら……!


彼が、少し首を傾げた。


「……ふふ。もう一つ、いい?」


…………!


待って!


私は反射的に、片手を彼へ向けた。小さく、手のひらを見せる。


彼がぴたりと言葉を止めた。


「……おっと」


私の手を見て、ふっと笑う。


「ここまでだね」


すっと身体を戻して、ゆったりと背もたれに寄りかかった。


「ふふ。承知いたしました」


……ああ。止まってくれた。


私、何も言えなかったのに。ちゃんと、伝わった。


彼はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、さっきまでと同じように楽しそうに笑っている。


……ああ。よかった。


止めちゃったけど。嫌じゃなかった。むしろ、すごく嬉しかった。


でも、今はちょっと、いっぱいで。


……ふふ。


私は手を下ろして、少しだけ彼のほうを見た。


彼は何も言わずに微笑んだ。


……ああ。好きだなぁ。


もっと構ってほしい気持ちも、今は待ってほしい気持ちも、どっちも持っていていいんだ。


そんなことを、少しだけ思った。


*


それからは、また静かな時間になった。


彼は花壇を眺め、私は隣でゆっくり休んでいた。


さっきまで、あんなに胸がいっぱいだったのに。今は少し落ち着いている。


彼は、私が手を上げたとき、すぐに止まってくれた。しかも、嫌そうな顔なんてしなかった。むしろ、なんだか満足そうだった。


……ふふ。嬉しいな。


「……そろそろ、どうかな」


彼が穏やかに聞いた。


「……うん。もう大丈夫」


「そっか。それじゃあ、今日はここでお開きにしようか」


「……うん」


今度は、素直に頷けた。まだ彼と一緒にいたい気持ちは、もちろんある。でも、身体が少し疲れているのも本当だ。


今日は、いっぱい嬉しいことがあった。彼も、楽しそうだった。


それがわかっているから、帰るのも少しだけ寂しくなくなった。


*


公園を出るまで、彼はゆっくり歩いてくれた。


出口の近くで、一度花壇を振り返る。ピンクの花が、また風に揺れていた。


「いやぁ、今日はずいぶんいい時間を過ごせたねぇ」


「……うん!」


「花も綺麗だったし、君ともたくさん話せた」


彼が楽しそうに笑った。


「それに、今日は俺の願いまでひとつ叶えてもらった」


…………!


あ。ハグ。


彼も、まだ覚えてるんだ。


「……ふふ」


彼は少し得意げに笑った。


「……どうも困ったことに、俺の願いは一つ叶うと、また次が増えるらしい」


……え?


次? ……次って、何?


彼は肩をすくめて、いかにも困ったような顔をした。


でも、その目はちっとも困っていない。むしろ、今にも声を立てて笑いそうなくらい楽しそうだった。


「まあ、次に会う楽しみに取っておこうか」


…………。


ああ。そうなんだ。


彼も、また何かしたいって思ってくれてる。


……ふふ。嬉しいな。


「それじゃあ、またね」


「……うん。またね!」


彼が手を振る。私も、手を振り返した。


……ああ。また会える。


そのときは、もう少し元気だといいな。


でも、今日みたいな日も、彼と一緒に過ごせた。それが、とっても嬉しかった。


私はゆっくり帰り道を歩きながら、今日のことを思い返した。


なれるかどうかじゃなくて、なりたいかどうか。


このあいだの映画のあと、彼が言ってくれた言葉。


……私、あんなふうに、自分の気持ちを伝えられるようになりたい。


今日はまだ、「もっと構ってほしい」とは言えなかった。


でも。


「嬉しい」は言えた。


それから、「待って」も、ちゃんと伝えられた。


……ふふ。


少しだけ、変われたのかな。


そんなことを考えたら、なんだかちょっと嬉しくなった。



言えなくても、少しだけ | 第15話


彼の帰り道


……いやぁ。


今日は、なかなかいい日だったねぇ。


朝、彼女に会ったときから、少し様子が違っていた。歩く速さも、返事の調子も、いつもより控えめだった。


体調がよくないのかと聞けば、小さく頷いた。


だから今日は、無理せず花を眺めて、早めに帰るつもりだった。


ところが。


「今日は少し早めに帰ろうか」と言った途端、あの顔だ。


……ああ、この顔。


見覚えがある。


最初に彼女と話した頃にも、一度見た。前に、頑張りすぎてしまったときにも。


ほんの少し眉が寄って、何かを言いかけて、でも言葉にならない。


……ふふ。これは、言葉を探しているときの困った顔なんだねぇ。


何を言いたいかまでは、まだわからない。


でも、今回は聞いてみることができた。


「もう少し一緒にいたかった?」


彼女は、こくりと頷いた。


……ははっ。


いやぁ、嬉しかったねぇ。


最近は嬉しい「うん」の正答率に自信が出てきたけれど、どうやら困った顔のほうにも、ひとつ手がかりが増えたらしい。


もっとも、見つけただけで何でもわかるわけじゃない。これからも、ちゃんと尋ねていこう。


それに、彼女が自分から「嬉しい」と言ってくれた。


あれは格別だった。


……ふふ。聞けて嬉しいよ、ほんとうに。


*


花壇の前は静かだった。


「この辺り、俺たちだけみたいだ」


口にしてから、ふと思い出した。


……ああ、そういえば。


前にも、こんなふうに二人きりで座ったことがあったねぇ。


あのときは、彼女が懸命に平気な顔をしようとしていた。少しでも肩の力を抜いてほしくて、俺はハンカチを渡したんだった。


……ハンカチ。


そういえば、返却式なんてものもあったな。


あのときは、実に楽しい返事をもらった。


「俺をぎゅーっと」なんて、冗談めかして言ってみたのだったか。


……ふふ。


今、彼女に同じことをお願いしても、きっと困らせてしまうだろうねぇ。今日は身体も重そうだし、自分から抱きつくなんて、なおさら難しいだろう。


だが。


俺が抱きしめるのなら、どうだろう。


ああ。そうだねぇ。


そもそも、俺がしたいんだ。


この間、映画の帰りにも、もう少し近づきたいと思った。


今日は、会いに来てくれたお礼も伝えたい。頑張ったね、とも言いたい。


でもそれだけじゃない。


俺が、彼女を抱きしめたい。


……よし。聞いてみようか。


「……もっとも、今日は俺のほうが抱きしめたいんだけどねぇ」


そう言うと、彼女は目を丸くした。


少しして、俺の「いいかな?」に、小さく頷いた。


……ああ。


よかった。


そっと身体を寄せて、肩に腕を回す。


ベンチに並んだままだから、抱きしめるといっても、ほんの軽いものだった。


数秒だけ。


それでも、確かに腕の中に彼女がいた。


……ふふ。


いやぁ、嬉しいねぇ。


思わずそう口にしたら、彼女がこちらを見上げた。


嬉しかったかと尋ねると、元気のいい「うん」が返ってきた。


……ははっ。


大成功、というところかな。


彼女はまだ、どうしていいのかわからない顔をしていた。そりゃあ、急に抱きしめられたんだからねぇ。


もう少し長く、という願いがなかったわけじゃない。


でも今日はこれくらいがいい。


彼女が頷いてくれて、俺が抱きしめることができた。


それだけでも、ずいぶん幸せなものだよ。


*


それからも、彼女とはよく笑った。


名探偵の肩書きをうっかり借りてしまったポップコーン隊長は、あっさり犯人扱いされてしまった。


いやぁ、なかなか手厳しい名探偵殿だねぇ。


けれど彼女が笑うから、俺もつい調子に乗ってしまう。


花の皆様に申し訳ないほど、隣を見てしまったと言ったときも、あんなに嬉しそうにしてくれた。


……ふふ。


彼女の嬉しい「うん」には、やっぱり自信がある。


それなら、もう一問。


もう少し構ってほしいかと聞いてみたら、彼女は両手で顔を覆ってしまった。


……ははっ。


いやぁ、そうくるか。


あの顔も、俺は好きだなぁ。


けれど、答えを急がせるつもりはない。


彼女がゆっくり顔を上げるまで待っていたら、やがてそっと手を下ろしてくれた。


「おかえり」


そう言うと、「もう」と返ってきた。


……ふふ。ああ、楽しい。


もう一つ、何か言ってみたい。


君がもう少し見せてくれるなら、俺はまだまだ嬉しくなっちゃいそうだけど。


そう伝え、もう一ついいかと聞きかけた、そのときだった。


彼女が、ぱっと片手を上げた。


こちらに向けた、小さな手のひら。


……おっと。


ここまで、か。


俺はすぐに言葉を止めた。


「ここまでだね」


そう言うと、彼女の肩から少し力が抜けたように見えた。


……ああ。


これは、いいねぇ。


今までは、彼女が言葉をなくすと、どこでやめようか俺が考えていた。


でも今日は。


自分から、待ってほしいと教えてくれた。


……ふふ。


もちろん、俺が勝手にどこまでもからかっていいわけじゃない。彼女の様子はこれからも見ていたい。


それでも、彼女が自分で合図を出してくれたことが嬉しかった。


俺も今日はずいぶん楽しませてもらった。


嬉しかったと、何度も頷いてくれたこと。


俺の芝居に笑ってくれたこと。


構ってほしいかと聞いたら、あんなふうに顔を隠してしまったこと。


それから。


最後には、ちゃんと「待って」を教えてくれたこと。


……ああ。また一つ、彼女のことを知れたねぇ。


なかなか素敵な時間じゃないか。


*


公園の出口で、今日のことを思い返した。


帰り際の彼女は、少し疲れてはいたけれど、笑って手を振ってくれた。


今日は一度、抱きしめることができた。


正直に言えば、もう少し長くそうしていたい気持ちもあった。


それに、彼女が顔を隠したあとも、もう少し楽しませてほしかったねぇ。


けれど、最後には自分から「待って」と教えてくれた。


……ああ。それも嬉しかった。


俺が近づきたいときには、お願いできる。


彼女が待ってほしいときには、教えてもらえる。


……ふふ。いいじゃないか。


もっと近づきたいという願いは、まだある。


だから最後に、ちょっとだけ打ち明けてみた。


「俺の願いは一つ叶うと、また次が増えるらしい」


……いやぁ、実に困ったものだねぇ。


そんなことを言いながら、俺自身は少しも困っていなかった。


次に会う楽しみが、また増えたんだから。


……さて。


今度は、ひとつ聞いてみようか。


あの手が上がるまでは、もう少しからかってもいいのかなって。


もちろん、彼女が嫌がるならそれまでだ。俺だって、今日のように途中でやめたくなるかもしれない。


でも、二人で楽しめるなら。


……ふふ。


もう少しだけ、欲張ってみたいねぇ。

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