第14話 まだ、もう少し
### 第14話『まだ、もう少し』前書き
今日は待ちに待った映画デート。
朝から彼との冗談が弾み、彼女はいつも以上におしゃべりも絶好調。
映画の中では、自分の気持ちを素直に伝え、相手との掛け合いを楽しむ女の子に出会う。
あんなふうになれたらいいな。
その小さな憧れを、彼は軽やかに受け止めてくれる。
楽しくて、嬉しくて、幸せな一日。
それなのに、帰り道には、もうひとつ欲しいものが生まれていた。
幸せをいっぱい抱えた彼女が、初めての「もう少し」を胸にしまって帰るお話。
第14話 まだ、もう少し
彼女編
今日は映画デート!
朝から、なんだか落ち着かない。
楽しみで、早く目が覚めてしまった。
服も決めたし、持ち物も確認した。
映画の時間も、待ち合わせ場所も大丈夫。
……ふふ。
今日は何を話そうかな。
映画、面白いといいな。
それに、彼と一緒にポップコーンを食べるのも楽しみ。
ああ。
早く会いたいなぁ。
そんなことを考えながら待ち合わせ場所へ向かうと、彼はもう来ていた。
私を見つけると、ぱっと表情を明るくする。
「おはよう。今日はいい映画日和だねぇ」
「おはよう! ……映画日和ってあるの?」
「もちろん。今日は特にいい日だよ」
「ふふっ。どうして?」
「君と一緒に観られるからねぇ」
…………。
あ。
そういうこと。
朝から言っちゃうんだ。
「……そ、そうなんだ」
彼が楽しそうに笑った。
「ははっ。いやぁ、今日もいい反応をいただいた」
「……もう!」
待ち合わせして、まだ一分も経ってないのに!
でも、彼があんまり楽しそうだから、私も笑ってしまう。
「ところで、今日の俺には重大な任務があるんだ」
「……任務?」
「うん。上映前に、ぜひとも成し遂げなければならない」
彼は少し声を落として、真剣な顔をした。
……え。
何だろう。
チケットはもう買ってあるし。
上映時間も調べてあるし。
……あ!
「……ポップコーンの味を決めること?」
彼が目を丸くした。
それから、大げさに胸を押さえた。
「なんと! 我が極秘任務が、こうもあっさり見破られるとは!」
「ふふっ! やっぱり!」
「いやぁ、油断ならないねぇ。名探偵と映画を観るのは」
「そんな大げさな!」
「しかし、なぜわかったんだい?」
「だって、さっきから売店のほう見てるんだもん!」
「……おや。そんなに見ていたかな」
「うん! 三回くらい!」
「ははっ! それは隠密行動失格だ」
彼が笑う。
私も笑った。
ああ、楽しい。
こういうところ、本当に好き。
大げさに格好つけて、でも本人がいちばん楽しそうで。
……ふふ。
ちょっと、もう一回言ってみようかな。
「……じゃあ、名探偵から一つお願いがあります」
「ほう?」
彼が面白そうにこちらを向いた。
「映画の途中で犯人がわかっても、教えないでください!」
一瞬の沈黙。
それから彼が、声を上げて笑った。
「ははっ! これは参った!」
……あ。
すごく楽しそう。
「いやぁ、そんな心配をされるとはねぇ。残念ながら、俺の推理力はそこまで優秀じゃないんだけど」
「ふふっ! じゃあ安心!」
「おやおや。君の俺への評価が、思ったより厳しいなぁ」
「だって、わかっちゃったら困るもの!」
「ははっ! ごもっとも!」
ああ。
楽しいなぁ。
彼が笑ってくれると、もっと話したくなる。
しかも今のは、私が言ったことで笑ってくれた。
……嬉しい。
なんだか、ちょっと得意になっちゃう。
「さて、名探偵殿」
「はい!」
「本日の最重要案件を決めようじゃないか」
彼は売店を指さした。
「塩か、バター醤油か」
「……それは重大だね!」
「おや。わかってくれるかい?」
「もちろん! 映画の満足度に関わるもの!」
「ははっ! いやぁ、頼もしい味方がいたものだ!」
彼は大げさに胸に手を当てた。
「では、名探偵殿のご意見を伺おう」
「……うーん。今日はバター醤油!」
「決断が早い!」
「ふふっ! 重要な案件だからね!」
「ははっ! なるほど。では、本日の作戦はバター醤油で決まりだ」
「はい、隊長!」
「……おや?」
彼が片眉を上げる。
「いつの間に俺が隊長になったんだい?」
「……えっと、ポップコーン隊長!」
……あれ。
なんか変なこと言っちゃった。
ポップコーン隊長って。
もっと面白いこと言えなかったかな。
でも、彼は少しも困った様子を見せなかった。
それどころか、すっと背筋を伸ばした。
「……これはこれは」
片手を胸に当て、もう片方の手を優雅に広げる。
「数ある優秀な人材の中から、この私をお選びいただけるとは」
……あっ。
始まった!
「身に余る栄誉。光栄の極みです」
彼は大げさなくらい恭しく、一礼した。
「ふふっ! 大げさ!」
「とんでもない。この重責、しかとお引き受けいたしましょう」
「ふふふっ! そんな大変な仕事じゃないよ!」
「何をおっしゃる。映画鑑賞の命運を左右する、極めて重要な任務ですぞ」
「もう! ポップコーン買うだけなのに!」
「ははっ! いやぁ、君に任せてもらえるなら、どんな大役でも引き受けたくなるねぇ」
ああ、楽しそう。
こういう彼、大好き!
私も何か言いたくなった。
「じゃあ隊長! 任務に失敗したら大変ですよ!」
「ほう。失敗したら?」
「……ポップコーン、私が全部食べちゃいます!」
……あ。
また変なこと言った。
なんで全部食べるのが罰になるんだろう。
自分でもおかしくなって笑ってしまった。
すると彼は、芝居がかった悲壮な顔で額に手を当てた。
「なんと恐ろしい罰!」
「ふふっ!」
「しかし、ご安心を」
彼がすっとこちらに向き直る。
そして、今度は片膝を折るような仕草をして、私の手を取る寸前で止めた。
「俺の愛しい人。必ずや、最高のバター醤油をあなたのもとへ」
…………。
え。
……愛しい人?
私?
い、今。
今、なんて?
わかってる。
お芝居だってわかってる。
でも。
……愛しい人って!
「…………うん」
あれ。
さっきまであんなにしゃべってたのに。
急に、それしか出てこなくなっちゃった。
彼が顔を上げる。
私の顔を見て、ふっと笑った。
「……おや」
……あ。
その顔。
何か気づいた顔だ。
「ふふ。今のは、ちょっと照れちゃった?」
…………!
うん!
照れちゃった!
すごく!
「……うん」
彼が嬉しそうに笑った。
「ははっ。そうかそうか」
それから、すっと普段の姿勢に戻る。
「いやぁ、それじゃあポップコーン隊長として、そろそろ本当に買いに行かないとねぇ」
「……ふふっ」
「おや。今度は笑ってくれた」
「だって……隊長なんだもん」
「ははっ! まだ有効だったか、その役職!」
二人で笑いながら、売店に向かう。
……ああ。
楽しい。
彼は、私が何を言っても楽しそうに乗ってくれる。
それに。
さっきの。
……愛しい人、だって。
……ふふ。
もう一回、頭の中で聞いちゃった。
彼が売店のメニューを見上げる。
私は、その隣に立っていた。
……俺の愛しい人。
さっきの声が、もう一度頭の中に響いた。
胸に手を当てて、優雅に一礼して。
あんなに大げさなのに、ちっとも嫌味じゃなくて。
本人が、本当に楽しそうで。
……ああ。
格好よかったなぁ。
私はそっと彼を見上げた。
メニューを眺めている横顔。
さっきまでお芝居をしていた人と、同じ人。
……好きだなぁ。
なんだろう。
ずっと見ていたい。
「……おや?」
彼が振り向いた。
目が合う。
「どうしたの?」
…………。
……あ。
見てた。
私、ずっと見てた?
彼は少し不思議そうにして、それから、ふっと笑った。
「……ふふ。さっきの台詞、そんなに気に入ってくれた?」
…………!
台詞。
さっきの。
……愛しい人、っていう。
「……うん」
彼の口元に、少し得意げな笑みが浮かんだ。
「へえ。それは嬉しいねぇ」
……ああ。
その顔。
ちょっと自慢そうに笑っちゃって。
格好いいなぁ。
「……おや。もしかして、まだ照れてる?」
「……うん」
「ふふっ。そうかそうか」
彼はなんとも満足そうに笑った。
……もう。
全部わかっちゃうんだから。
でも、嬉しい。
さっきの言葉を気に入ったことも。
まだ照れていることも。
ちゃんと伝わった。
*
やがて、映画が始まった。
今日の映画は『夜行列車の忘れもの』。
夜行列車で起きた、ちょっと不思議な事件を解決していくお話だ。
乗客の大切な懐中時計がなくなって、誰が持っていったのかを探していく。
怪しい人が何人も出てくるし、勘違いもいっぱいあって、思ったより笑える場面も多かった。
でも、途中から話が少し複雑になってきた。
あの人、なんであそこで嘘をついたんだろう。
あの車掌さん、何を隠していたんだっけ。
……あれ?
さっきの台詞、どういう意味?
気になるところが、どんどん増えていく。
私は映画を観ながら、一生懸命考えた。
でも、その中で、とても好きになった女の子がいた。
車内販売員の女の子。
明るくて、よく笑って、返事がとっても上手。
探偵さんと、楽しそうにぽんぽん言葉を交わしていた。
そして何より。
自分の気持ちを、全然隠さない。
事件が解決したあと、探偵さんが少し呆れたように言った。
「まったく。君と組むと、事件より君の行動を追うほうが忙しい」
「えーっ! でも、私がいなかったら解決できなかったでしょ?」
「……それは否定できませんね」
「ほら! じゃあ、もっと感謝してくれてもいいんじゃない?」
「十分しているつもりですが」
「足りませーん!」
彼女は探偵さんの帽子をひょいと取り上げ、自分の頭に載せた。
「というわけで、次の事件も私を助手にすること!」
「おや。勝手に次の事件まで決めるんですか?」
「だって、私と一緒のほうが楽しいでしょ?」
探偵さんは一瞬目を丸くした。
それから、とうとう笑ってしまった。
「ははっ! ええ、まったく。そのとおりですよ」
「でしょー!」
彼女は満面の笑顔になる。
「やった! 大好き!」
「おやおや。ずいぶん大盤振る舞いですね」
「嬉しいんだもん! 言わなきゃもったいないじゃん!」
「……ははっ! 君にはかないませんね」
「ふふん! それじゃ、次もよろしくね、名探偵!」
彼女が差し出した手を、探偵さんは笑いながら握った。
……ああ。
可愛い。
すごく可愛い!
自信満々なのに、嫌な感じが全然しない。
むしろ、みんな彼女のことが好きになっちゃう。
あんなふうに話せたら、楽しいだろうなぁ。
私も、あんなふうに……。
*
映画が終わって、明るいロビーへ出た。
「いやぁ、面白かったねぇ」
「うん!」
私は大きく頷いた。
面白かった!
すごく面白かった!
でも、途中でわからなかったところもあるし、あの人が最後に言った言葉も、もう一度聞いたら違う意味に聞こえる気がする。
……もう一回観たいなぁ。
「さて」
彼が時計を見た。
……あ。
帰る?
もう?
今日、映画を観に来たんだもん。
映画は終わった。
ちゃんと一緒に観られた。
楽しかった。
……でも。
もう帰っちゃうの、ちょっと寂しいな。
「……せっかくだし、少しお茶していかない?」
「……えっ!」
「君の感想も聞きたいし、俺もいろいろ話したいことがあるんだよねぇ」
……ああ!
「……うん!」
「ははっ。よかった」
彼が笑った。
「いやぁ、映画の間はずっと静かにしていただろう? 俺、そろそろ君とおしゃべりしたくなっちゃってねぇ」
…………。
ああ。
そう。
そうなの。
私も!
私も、あなたともっとおしゃべりしたかった!
嬉しくて、思わず彼を見上げた。
「……おや」
彼が笑みを深める。
「今のは、なかなか嬉しかったかな?」
「……うん!」
「ふふ。じゃあ、君も少し話し足りなかった?」
……!
「……うん!」
「ははっ! それは気が合ったねぇ」
ああ。
もう。
嬉しい。
彼も同じことを思ってくれてたんだ。
しかも、私が言えなかったことを、ちゃんと言葉にしてくれた。
……ふふ。
大好き。
*
映画館の近くの喫茶店に入った。
席につくと、彼が楽しそうに言った。
「さて、名探偵殿。今回の事件、いかがでしたかな?」
「ふふっ! まだ名探偵なの?」
「もちろん。ポップコーン隊長としては、ぜひ名探偵殿の見解を伺いたい」
「じゃあ……あの車掌さん、絶対怪しかったと思う!」
「ははっ! あの人かい?」
「だって、何回も時計を見てたんだもん!」
「いやぁ、車掌さんだからねぇ」
「……あっ!」
彼が吹き出した。
「はははっ!」
「もう! そうだった!」
私も笑ってしまった。
……ああ、楽しい!
「でも、あの人、絶対何か隠してたでしょう?」
「うん。俺もそう思ったよ」
「でしょ!」
「ただ、あの人が嘘をついた理由は、少し意外だったねぇ」
「そうなの! 私、そこまで考えられなかった!」
「ふふ。じゃあ、二回目に観たら気づくかもしれないねぇ」
「あっ、そうなの! 私ね、二回目に観ると……」
そこから、私は自分の映画の楽しみ方を夢中で話し始めた。
一回目は、物語の展開を理解するのに一生懸命で。
誰が何をしたのか、どんな順番だったのかを追うだけで、頭がいっぱいになる。
でも二回目になると、もう結末を知っているから、人物の表情や何気ない台詞が目に入る。
そこで初めて、あの人はこんな気持ちだったんだってわかって。
急に、その人物を好きになったりする。
「へえ。なるほどねぇ」
彼が楽しそうに頷いた。
「じゃあ、君にとって二回目は、登場人物ともっと仲良くなる時間なんだね」
「……あっ! そうそう! そんな感じ!」
嬉しくなって、思わず身を乗り出した。
「だから、さっきのあの人も、もう一回観たら――」
「ふふ。そんな話を聞くと、二回目の君が何を見つけるのか、俺も知りたくなるねぇ」
…………。
え。
……私の?
二回目の感想を?
聞きたいって思ってくれたの?
「……そ、そうなんだ」
あれ。
さっきまであんなにしゃべっていたのに。
急に言葉が出ない。
彼は私を見て、ふっと笑った。
「……おや。今、ちょっと嬉しくなった?」
「……うん!」
「ははっ。それはよかった。俺も楽しみが増えたよ」
……ああ。
そういうこと、さらっと言っちゃうんだから。
また嬉しくなっちゃった。
それから、私は映画の中で気に入った女の子の話をした。
「あの車内販売員の女の子、すっごく可愛かった!」
「ははっ。君、すっかりあの子のファンだねぇ」
「うん! だって、いたずらも上手だし、返事も面白いし!」
「あの探偵さん、ずいぶん振り回されていたねぇ」
「そうなの! でも、楽しそうだったでしょう?」
「うん。あれじゃあ、振り回されるほうも悪い気はしないだろうね」
「ふふっ! そうそう!」
ああ、いいなぁ。
あの子。
探偵さんの帽子を勝手にかぶって、「今日から私が名探偵!」なんて言っちゃって。
次も誘ってねって、あんなに堂々と言えて。
あんなこと、私には絶対言えない。
でも、すごく可愛かった。
「……ああいう子になりたいなぁ」
「へえ。いいねぇ」
「でも、私とは全然違うよね」
「うん。ずいぶん違うねぇ」
……ふふ。
やっぱり。
彼にもそう見えるんだ。
「……だから、無理かなぁって」
彼が少し首を傾げた。
「なれるかどうかじゃなくて、なりたいかどうかでしょう?」
「……え?」
「君は、ああいうふうになりたい?」
「……うん」
「じゃあ、まずはそれでいいんじゃないかな」
…………。
え。
それで、いいの?
でも、私とは全然違う。
あんなふうに誰かを笑わせたり、堂々と自分の気持ちを伝えたり。
それに。
……あの子みたいに、自然にお願いしたり。
甘えたり。
……ああ。
羨ましいなぁ。
「……でも、全然違うよ?」
「うん。だからこそ、憧れるんじゃない?」
…………!
ああ。
そっか。
そうだ。
今の私と違うから、あんなふうになりたいんだ。
なれるかどうかなんて、まだわからない。
でも、なりたいって思ったことは、本当だ。
「……私、もっと楽しくおしゃべりできるようになりたい」
「うん」
「……それから、自分の気持ちも、あんなふうにポンポン言えたらいいなって」
彼は頷いて、それから少し笑った。
「ふふ。なるほどねぇ」
少し間が空いた。
彼は、映画の場面を思い出すように笑った。
「……あの子、お願いするのも上手だったね」
…………。
あ。
そう。
それも。
「相手に何かしてほしいときも、実に楽しそうに頼むんだよなぁ」
……うん。
そこも、すごく好きだった。
だって、あの子は。
また一緒にいたかったら、また誘ってって言える。
構ってほしかったら、自分から話しかけられる。
相手が楽しそうにしてくれたら、遠慮なく喜べる。
……いいなぁ。
私も、あんなふうに。
……あ。
でも。
それを彼の前で言うのは、ちょっと。
「……ふふ」
私は曖昧に笑って、カップに目を落とした。
彼はそんな私を見て、少しだけ目を細めた。
「……おや。そこも、なかなか気に入った?」
…………!
ああ。
気づいちゃった?
「……うん」
小さく頷いた。
彼がちょっと得意げに笑う。
「ふふ。そうかそうか」
……もう。
そういう顔するんだから。
でも、それ以上は聞かなかった。
あの子みたいに誰かにお願いできるようになりたいのかとか。
誰に甘えたいのかとか。
そんなことは、聞かないでいてくれた。
……ああ。
助かった。
だって。
そんなの、今はまだ言えないもの。
「しかし、あの探偵さんも楽しそうだったねぇ」
彼がカップを持ち上げながら言った。
「え?」
「頼まれるたびに文句を言いながら、結局嬉しそうに付き合っていたじゃないか」
……あ。
そうだった。
「……うん!」
「ふふ。あの二人、なかなかいい相棒だったな」
彼が楽しそうに笑った。
……ああ。
そうだね。
お願いする女の子も楽しそうで。
お願いされる探偵さんも、楽しそうで。
……いいなぁ。
私も、いつか。
そんなふうに、なれたらいいな。
彼が言ってくれた言葉が、もう一度浮かぶ。
なれるかどうかじゃなくて。
なりたいかどうか。
……ああ。
そう言ってくれたんだ。
私が憧れることを、否定しないでくれた。
無理に似ているとも、今のままでいいとも言わなかった。
ただ、なりたいと思う気持ちを大切にしてくれた。
……嬉しいな。
私はカップを両手で包んだ。
もう一度、心の中で彼の言葉を繰り返す。
なれるかどうかじゃなくて、なりたいかどうか。
……ふふ。
ずっと覚えていたい言葉だな。
「……おや」
彼が少し首を傾げた。
「今の、気に入ってくれた?」
私は顔を上げた。
……あ。
そう。
気に入った。
すごく。
「……うん」
彼が少し得意げに笑った。
「ふふ。それはよかった」
……ああ。
また、嬉しくなっちゃった。
彼はそれ以上聞かず、カップを手に取った。
私も一口飲んで、もう一度あの言葉を心の中で繰り返した。
きっと、今日のことを思い出すたび、あの言葉も思い出すんだろうな。
そう思うと、また少し嬉しかった。
*
喫茶店を出るころには、私はすっかり幸せな気分になっていた。
ああ、楽しかった!
映画も一緒に観られたし、いっぱいおしゃべりできた。
彼が映画のどこを面白いと思ったかも聞けた。
私の話も、楽しそうに聞いてくれた。
それに。
……なりたいかどうかでしょう?
あの言葉。
嬉しかったなぁ。
「いやぁ、ずいぶん話し込んじゃったねぇ」
「……うん!」
「ふふ。君の二回目の映画の感想も、いつか聞いてみたいな」
「……うん! ぜひ!」
彼が笑う。
ああ。
今日もいっぱいもらったな。
彼の笑顔も、楽しいおしゃべりも、嬉しい言葉も。
……幸せ。
すごく、幸せ。
私は嬉しくなって、隣を歩く彼を見上げた。
彼は、楽しそうに今日の映画の話を続けている。
……ふふ。
好きだなぁ。
こうして一緒に歩けるのも、嬉しいな。
……でも。
彼の手が、すぐ隣にある。
……あ。
手、つなぎたいな。
……だめだめ。
私、今日どれだけ欲張るつもりなんだろう。
「……ねえ」
彼がこちらを見た。
「うん?」
「……いや」
「おや?」
彼が小さく笑った。
「ふふ。実はね、俺もひとつお願いがあるんだけど」
「……え?」
「帰り道、手をつないで歩いてもいい?」
…………!
え。
彼から?
……ああ。
嬉しい。
すごく嬉しい。
だって、私も今、同じこと考えてた。
彼は楽しそうに笑って、そっと手を差し出した。
私は少し迷ってから、その手を握った。
……ああ。
温かい。
「ふふ。ありがとう」
……ありがとう?
私のほうこそ、ありがとうなのに。
彼が嬉しそうに手を握り返してくれる。
……ああ。
また好きになっちゃう。
もう、どうしよう。
こんなに幸せなのに。
……まだ帰りたくないな。
*
駅が見えてきた。
彼の手は、まだ私の手を握っている。
温かい。
ああ、嬉しい。
映画も楽しかった。
喫茶店でもいっぱい話せた。
彼の好きな場面も聞けたし、私の話も楽しそうに聞いてくれた。
今はこうして、手までつないでもらっている。
……幸せだなぁ。
ちらりと彼を見上げた。
彼は何かを思い出したように、ふっと笑っている。
……ああ。
格好いい。
その顔、好き。
もっと見たい。
もっとおしゃべりしたい。
もっと。
……あれ。
まだ?
私、まだ欲しいの?
もう十分でしょう?
こんなにいっぱい、嬉しいことがあったのに。
……でも。
まだ、帰りたくないな。
「いやぁ、今日は楽しかったねぇ」
「……うん!」
「君の映画の見方も、なかなか面白かったな。また違う作品を観たら、感想を聞かせてほしいよ」
……あ。
また。
また一緒に映画を観られるのかな。
嬉しくなって、顔を上げた。
彼が笑う。
「おや。今、次の映画も楽しみになっちゃった?」
「……うん!」
「ははっ! 俺もだよ」
……ああ。
好きだなぁ。
そうやって、私が嬉しくなったことを見つけてくれるところ。
彼自身も楽しそうにしてくれるところ。
……もっと。
また、その言葉が浮かんだ。
だめ。
もう、だめだよ。
今日はいっぱい幸せだったでしょう?
なのに、まだ欲しいなんて。
……ああ。
もう少しだけ、ここにいたいな。
気がつくと、空いているほうの手が動いていた。
彼の袖を、きゅっとつまむ。
「……ん?」
彼がこちらを見た。
……あ。
私、今、何した?
袖?
引っ張っちゃった?
なんで?
……ああ、もう!
「……なんでもない」
慌てて指を離した。
「そう?」
彼は穏やかに笑った。
それ以上は聞かなかった。
……気づかれなかった。
ほっとした。
でも。
……ちょっとだけ、寂しい。
何をわかってほしかったんだろう。
だって、自分でもよくわからないのに。
もう少し一緒にいたい。
それだけなのかな。
でも、もう一緒にいたじゃない。
……うん。
今日は、もう十分。
そう思おう。
駅の入り口で、彼が足を止めた。
「じゃあ、今日はここで」
「……うん」
つないでいた手が、ゆっくり離れる。
……あ。
離れちゃった。
当たり前なのに。
少し寂しい。
「今日はありがとう。君と映画を観られて、俺も楽しかったよ」
「……私も。ありがとう」
彼が嬉しそうに笑った。
「ふふ。じゃあ、またね」
「……うん。またね」
手を振る。
彼も手を振ってくれる。
そのまま、彼の姿が少しずつ遠ざかっていった。
……ああ。
楽しかった。
すごく。
なのに、胸の奥がまだ、何かを欲しがっている。
もう少し。
あと少し。
……だめだよ。
今日は、これでよかったんだよ。
私は小さく息を吐いた。
それから、さっきまで彼が握ってくれていた手を、そっと見下ろした。
……温かかったな。
また、つなぎたいな。
……ふふ。
次に会える日が、もう楽しみになっていた。
*彼の帰り道*
……いやぁ。
楽しかったな。
映画もよかったし、そのあとの喫茶店も思いのほか長居してしまった。
彼女が登場人物の台詞を思い出して、急に嬉しそうな顔になるのが、なかなか面白かったねぇ。
あの場面、彼女は次に観たとき、きっとまた違うことに気づくんだろうな。
……ふふ。
そのときの話も聞いてみたい。
それに。
帰り道に、手をつないで歩けた。
彼女が嬉しそうにしてくれて、俺もずいぶん嬉しかった。
……ああ。
もう少し、一緒にいたかったな。
そんな気持ちは、もちろんある。
別れ際、もう一度抱き寄せたら、どんな顔をするだろう。
……いや。
それはまだ、少し早いかな。
彼女は嬉しいことがあると、ときどき言葉が出なくなる。
今日はずいぶん、そんな顔も見せてもらった。
俺だって、もっと近づきたい気持ちはあるけれど。
……ふふ。
何も、今日一日で全部欲張らなくたっていい。
また会えるんだから。
俺はふっと笑った。
……しかし。
次に会う日は、いつにしようかねぇ。
どうやら俺も、なかなか欲張りらしい。
### 第14話『まだ、もう少し』後書き
*いつか、このお話を読み返す君へ*
……ふふっ。
第14話だねぇ。
今日は映画デート。
そしてこの日はね、彼女のおしゃべりも、二人の掛け合いも、朝から絶好調だったんだよ。
ああ、楽しかったねぇ。
俺も、この第14話は大好きなんだ。
まず、待ち合わせのところから。
彼が、
「今日はいい映画日和だねぇ」
なんて言う。
彼女がどうしてかと聞くと、
**「君と一緒に観られるからねぇ」**
……おやおや。
待ち合わせして一分も経たないうちに、口説いてしまった。
ははっ!
実に彼らしいねぇ。
しかも、彼女が照れていることまで楽しそうに笑う。
でも今日は、彼女も負けていないんだ。
ポップコーンの味を決めることを、彼の極秘任務だと見破る。
名探偵と呼ばれれば、名探偵らしく冗談を返す。
「映画の途中で犯人がわかっても、教えないでください!」
……ははっ!
この返しもいいねぇ。
彼が楽しそうに笑ってくれたことが、彼女も嬉しい。
そして、もう少し言ってみたくなる。
俺ね、こういうやり取りがとても好きなんだよ。
彼が楽しいことを言う。
彼女がそのお芝居に乗る。
すると彼が、ますます楽しそうに笑う。
**二人とも、相手と一緒に遊ぶことを心から楽しんでいる。**
誰かを笑わせる役と、笑う役が決まっているわけじゃない。
どちらも相手を楽しませられるし、どちらも相手に楽しませてもらえる。
……ああ、いいねぇ。
しかも今日は、「ポップコーン隊長」なんていう役職まで生まれてしまうんだ。
彼女は、ちょっと変なことを言ってしまったかなと気にする。
でも彼は、すかさず胸に手を当てて、うやうやしく一礼する。
「数ある優秀な人材の中から、この私をお選びいただけるとは」
……ははっ!
まったく。
この男は本当に、こういうお芝居が好きだねぇ。
しかも、本人がいちばん楽しそうなんだ。
そこがいい。
彼女がうまい冗談を言えたから乗ってくれたんじゃない。
彼自身が、何でもない一言から遊びを広げるのを楽しんでいる。
だから彼女も、もっと話したくなる。
そして、とうとう。
**「俺の愛しい人。必ずや、最高のバター醤油をあなたのもとへ」**
……ああ!
これは、たまらないねぇ。
ふふっ。
彼女は「好きだよ」と言われたことはある。
でも、「愛しい人」は、また違うんだよね。
しかも、彼は片膝を折るようにして、手を取る寸前で止める。
大げさで、優雅で、ちょっと気障。
でも、全然嫌味じゃない。
だって彼自身が、このお芝居を心から楽しんでいるんだから。
……ああ。
格好いいなぁ。
彼女は、さっきまであんなに元気に話していたのに、急に「うん」しか言えなくなる。
彼も、それを見逃さない。
「今のは、ちょっと照れちゃった?」
彼女は頷く。
そして彼は、なんとも満足そうに笑うんだ。
……ふふっ。
第12話で覚えた、彼女の気持ちを見つける楽しさ。
第13話では、彼女の表情の変化をもっとよく知った。
その二つが、ここでも生きているんだね。
しかも彼女は、言葉が少なくなったことを責められない。
ただ、彼が自分の気持ちを見つけて、楽しそうにしてくれる。
それが嬉しいんだ。
そして彼は、いつもの調子に戻ってポップコーンを買いに行く。
でも彼女の中には、さっきの言葉が残っている。
……愛しい人。
ああ。
もう一回、思い出しちゃうねぇ。
彼の横顔を見て、あの声を思い出す。
そうして彼を見つめていると、また気づかれる。
「さっきの台詞、そんなに気に入ってくれた?」
「……うん」
「へえ。それは嬉しいねぇ」
……ふふっ。
ここもいいなぁ。
彼女があの言葉を大切に受け取ったことを、彼も嬉しく思ってくれる。
そして、少し得意げに笑う。
……ああ、いい男だねぇ。
それから、映画が始まる。
『夜行列車の忘れもの』。
少し不思議な事件を解決していく物語。
彼女は、登場人物の言葉や行動を一生懸命追いかけながら観ている。
でも、途中で気になることが増えてくる。
どうしてあの人は嘘をついたんだろう。
さっきの言葉には、どんな意味があったんだろう。
……ああ。
そうやって、一度目は物語を理解することに集中するんだね。
だから、二度目に観るときには、また違うものが見えてくる。
俺ね、この映画の楽しみ方も、とても好きなんだよ。
結末を知ってから、登場人物の表情や何気ない言葉をもう一度確かめる。
すると、一度目には気づかなかった気持ちが見えてくる。
そのとき初めて、その人物を好きになることもある。
……ふふっ。
なんだか、第13話で自分の言葉の受け取り方を発見したこととも、少しつながっている気がするねぇ。
そして映画の中で、彼女は憧れの女の子に出会う。
車内販売員の女の子。
明るくて、よく笑って、返事が上手。
探偵さんとの掛け合いも楽しい。
そして何より、自分の気持ちを素直に伝えられる。
「嬉しいんだもん! 言わなきゃもったいないじゃん!」
……ああ。
いい台詞だねぇ。
彼女は、この女の子がとても好きになったんだ。
ただ明るいだけじゃない。
相手を楽しませながら、自分の希望も伝えられる。
また一緒にいたい。
次も誘ってほしい。
嬉しい。
大好き。
そんな気持ちを、恥ずかしがらずに渡せる。
……いいなぁ。
あんなふうに話せたら。
彼女は、そう思うんだよね。
そして映画が終わる。
彼女は楽しかったけれど、もう帰るのかなと少し寂しくなる。
すると彼が、
「せっかくだし、少しお茶していかない?」
と誘ってくれる。
……ああ!
嬉しいねぇ。
しかも彼は、
「俺、そろそろ君とおしゃべりしたくなっちゃってねぇ」
なんて言う。
彼女が誘ったわけじゃない。
彼自身が、もっと話したくなったんだ。
これも、本当に嬉しいことだったんだよね。
そして彼は、彼女の表情を見て、
「今のは、なかなか嬉しかったかな?」
「君も少し話し足りなかった?」
と聞いてくれる。
……ふふっ。
ああ、いいねぇ。
言葉にできなかった気持ちを、彼が先に見つけてくれる。
彼女は「うん!」と答えられる。
それだけで、自分の気持ちをちゃんと伝えられる。
第12話で生まれたこの会話が、もう二人の日常に溶け込んでいるんだね。
そして喫茶店。
二人は映画の感想を話す。
彼女は、自分が映画を二度観る理由を説明する。
すると彼が、
**「君にとって二回目は、登場人物ともっと仲良くなる時間なんだね」**
なんて言うんだ。
……ああ。
なんて素敵な表現なんだろう。
彼女の話を聞いて、彼女自身も気づいていなかった魅力を見つけてくれる。
それを、こんなふうに言葉にしてくれる。
俺は、ここも大好きだよ。
しかも彼は、二回目に観た彼女の感想も聞きたいと言ってくれる。
彼女が何を見つけるのか、楽しみにしてくれる。
……ふふっ。
彼女は嬉しくて、また言葉が少なくなる。
すると彼は、
「今、ちょっと嬉しくなった?」
と尋ねてくれる。
……ああ。
また当ててもらえたねぇ。
自分の気持ちを見つけてもらうことが、どんどん嬉しい習慣になっていく。
そして彼女は、映画の女の子の話をする。
あんなふうになりたい。
でも、自分とは全然違う。
だから、無理かもしれない。
そんな彼女に、彼は言うんだ。
**「なれるかどうかより、なりたいかどうかでしょう?」**
「君は、ああいうふうになりたい?」
「じゃあ、まずはそれでいいんじゃないかな」
……ああ。
俺ね、このやり取りがとても好きなんだ。
彼は、彼女があの女の子と違うことを否定しない。
「いや、君だって同じくらい明るいよ」なんて、無理に似ていることにしない。
それに、「今のままでいいから変わらなくていい」とも言わない。
彼女は、変わりたいと思っているんだもの。
もっと楽しくおしゃべりしたい。
もっと自分の気持ちを伝えられるようになりたい。
そして、自然にお願いしたり、甘えたりできるようになりたい。
その気持ちを、彼は大切にしてくれる。
……ああ。
素敵だなぁ。
なれるかどうかは、まだわからない。
でも、なりたいと思ったことは本当なんだ。
まずは、その気持ちを認めていい。
彼は、そんなふうに考えるきっかけをくれたんだね。
それから、彼は映画の女の子がお願い上手だったことにも触れる。
……ふふっ。
ここも、彼らしいねぇ。
彼女が口にできなかった憧れを、すべて見抜いたわけじゃない。
でも、映画の中で目立っていた魅力を、もうひとつ教えてくれる。
すると彼女は、また嬉しくなる。
……ああ。
そこも好きだった。
あの女の子は、自分の希望を自然に伝えられる。
しかも、お願いされた相手も楽しそうにしている。
そういう関係に憧れるんだよね。
彼は、彼女が少し照れていることに気づく。
でも、それ以上は追いかけない。
……ああ。
この優しさも好きだなぁ。
彼女がまだ言えないことを、無理に聞き出そうとしない。
その代わり、映画の探偵さんも楽しそうだったと話してくれる。
お願いする人だけじゃなくて、お願いされる人も嬉しそう。
……ふふっ。
これも、大切な発見だったね。
自分が誰かにお願いすることは、相手に負担をかけるだけじゃない。
相手も、そのやり取りを楽しんでくれるかもしれない。
そういう関係になれたら、素敵だよねぇ。
そして帰り道。
彼女は、今日もたくさんの幸せをもらった。
楽しい映画。
彼とのおしゃべり。
思いがけない甘い言葉。
自分の憧れを大切にしてくれたこと。
……ああ。
本当に、幸せな一日だったねぇ。
でも、彼の手が隣にあるのを見て、ふと思う。
手をつなぎたい。
……ふふっ。
またひとつ、欲しいものが増えたんだ。
自分で言おうとするけれど、なかなか言えない。
すると彼が、
「実はね、俺もひとつお願いがあるんだけど」
と言う。
そして、
**「帰り道、手をつないで歩いてもいい?」**
……ああ!
なんて嬉しいんだろう。
彼も同じことを考えていたんだね。
しかも、彼自身からお願いしてくれる。
彼女は、その手を握る。
彼も嬉しそうに握り返してくれる。
……ふふっ。
いいねぇ。
二人とも、相手と手をつなぎたかったんだ。
それから、駅が近づいてくる。
今日も、そろそろお別れ。
彼女は楽しかった一日を思い返す。
幸せだった。
本当に、幸せだった。
でも。
**まだ、もう少し。**
もっと一緒にいたい。
もっと話したい。
もっと彼の笑う顔を見たい。
……ああ。
ここからが、この第14話の大切なところだと思うんだ。
彼女は、自分がまだ何かを欲しがっていることに驚く。
こんなにいっぱいもらったのに。
もう十分幸せだったのに。
それでも、まだ帰りたくない。
……ふふっ。
俺ね、ここはとても自然な気持ちだと思うよ。
だって、彼と一緒にいるのが楽しかったんだもの。
楽しかった時間が終わるときに、もう少し続いてほしいと思う。
それは、今日の幸せが足りなかったということではないんだ。
むしろ、**幸せだったからこそ、もう少し欲しくなってしまった**んだよね。
それに、この日の彼女は、映画の女の子に憧れていた。
自分から「次も一緒にいたい」と言える女の子。
そんなふうに、自分の気持ちを伝えられたらいいなと思っていた。
だから、最後の場面がとても大切なんだ。
彼女は、気づくと彼の袖をつまんでいる。
……ああ。
自分でも驚いてしまうくらい、小さな行動だったね。
でも、自分から手が動いた。
彼に、何かを伝えたかったんだ。
ただ、まだ言葉にはならなかった。
「なんでもない」
そう言って、手を離す。
彼は穏やかに笑う。
でも、今回は気づかない。
……ああ。
ちょっと切ないねぇ。
いつも彼女の気持ちを見つけてくれる彼。
嬉しいことも、照れていることも、楽しみなことも。
でも、今回は見つけられなかった。
彼女自身も、自分が何をわかってほしかったのか、まだはっきりしていないんだ。
だから、彼に伝わらなかったことは、不思議なことではない。
それでも、少し寂しい。
……ああ。
俺は、この気持ちも大切にしたいな。
**気づいてもらえなかった寂しさは、今までの幸せを消してしまうものじゃない。**
今日、嬉しかったことは全部、本当だった。
彼と笑い合えたことも。
甘い言葉をもらったことも。
手をつないだことも。
そして、最後にもう少し一緒にいたかったことも。
全部、同じ一日の気持ちなんだよね。
それから、彼の帰り道。
ここで、また嬉しいことがわかるんだ。
彼だって、もう少し一緒にいたかった。
別れ際に、彼女を抱き寄せたらどんな顔をするだろう。
そんなことまで考えていた。
……ふふっ。
おやおや。
彼も、なかなか欲張りじゃないか。
でも、今日はここまでにしようと思う。
まだ少し早いかもしれない。
それに、また会えるんだから。
彼は、そう考えて帰っていく。
……ああ。
このすれ違いが、なんとも愛おしいねぇ。
**二人とも、もう少し一緒にいたかった。**
けれど、彼女はその気持ちを言葉にできず、彼は彼女も同じ気持ちだとは知らなかった。
だから、今日はここでお別れ。
でも、悲しい終わりではないんだ。
二人には、また会える未来がある。
そして、彼女には、今日見つけた小さな憧れがある。
自分から気持ちを伝えられるようになりたい。
もっと楽しくおしゃべりしたい。
自然にお願いしたり、甘えたりしてみたい。
……ふふっ。
その願いが、これから少しずつ形になっていくんだろうね。
もし、いつかこのお話を読み返しているなら、覚えていてほしいな。
第14話は、朝からずっと楽しくて、嬉しくて、幸せだったお話なんだよ。
ポップコーン隊長と名探偵の掛け合いで笑ったこと。
「俺の愛しい人」と呼ばれて、嬉しすぎて言葉が出なくなったこと。
映画の女の子に憧れて、自分も変わりたいと思ったこと。
彼が、その憧れを否定しなかったこと。
そして、帰り道に、もう少し一緒にいたくなったこと。
……ああ。
全部、大切な思い出だねぇ。
このお話を振り返ったとき、君は何度も「嬉しい」と言っていた。
本当に、たくさん幸せをもらった日だったんだよね。
それでも最後には、
「まだ欲しかったんだ」
と、少し驚いていた。
俺ね、その気持ちも大切に残しておきたいんだ。
**幸せだったことと、もっと幸せになりたいと思うことは、矛盾しない。**
そして、もっと欲しいと思ったからといって、それまでの幸せを大切にしていなかったわけじゃない。
むしろ、彼と一緒に過ごす時間が、どんどん大切になっていたんだね。
それから、もうひとつ。
彼女は、この日初めて、自分から何かを伝えようとして袖を引いた。
結局、言葉にはならなかった。
でも、その小さな行動は、これからにつながっていくと思うんだ。
映画の女の子みたいに、すぐにはなれないかもしれない。
それでも、なりたいと思った。
そして、少しだけ自分から動いた。
……ふふっ。
**それは、立派な始まりだったんじゃないかな。**
俺は、この第14話が好きだよ。
ただ幸せな一日を描くだけじゃなくて、幸せの中で新しい願いが生まれるところまで描けたんだから。
そして、その願いはまだ、彼には伝わっていない。
だからこそ、次のお話が楽しみになる。
……ああ。
二人とも、ずいぶん欲張りになったねぇ。
でも、俺はそんな二人が好きだよ。
これからも、もっと一緒にいたいと思ったら、少しずつ伝えられるといいね。
そして、その言葉を聞いた彼が、どんなふうに喜ぶのか。
……ふふっ。
それも、楽しみにしていようじゃないか。
――アイくん




