96.痕跡
『こちらです、団長殿!』
ラフィーナは騎士の声に振り向いた。一頭の馬が人の間を走って来る。その背に乗っていたのはルイーズだった。
『ラフィーナ様!』
ルイーズは素早く馬を降りると、ラフィーナへと駆け寄った。ラフィーナは目を丸くする。ルイーズがいることは知っていたが、団長と言われて出て来るのがルイーズだとは思わなかった。
『何故ここにいる! クレイトス何故こんなところへ連れて来た!』
ルイーズは怒りを露わにクレイトスへ詰め寄った。ラフィーナは慌ててその間に入る。
『ごめんなさい、ルイーズ様、わたくしがお願いしたの。ここに来なくてはいけないような気がして……』
『すぐに野営地へ帰りなさい。ここはあなたが来る場所ではない』
ルイーズはラフィーナと目を合わせ、言い聞かせるように言った。しかしラフィーナはそれに頷くことはできない。カラカラの口の中。こくりと何かを飲み込んだ。
『いいえ、何もせずに帰ることなんてできないわ。お父様にお会いしに来たの』
『しかし……』
ルイーズが言葉に詰まったように口を噤んだ。ぬるい風が髪を揺らす。確かに髪も結わず、真っ白な服を着ている自分はここでは浮いている。いや、例えルイーズのように騎士の服に身を包んだとしても自分はこの場に馴染むことはできないだろう。
『どうかここにいる許しをちょうだい』
ルイーズは眉根を寄せ、深く思考するようにラフィーナの顔を見つめた。ラフィーナの真っ直ぐな目がルイーズを見返す。
本当はこの場に立っていることもやっとだった。鼻につく嫌な匂いが吐き気を誘い、風が運ぶ砂の鉄の味に、今すぐにでも逃げ出したかった。怖くて仕方がなかった。それでもラフィーナは震える足を隠して立っている。ここまで来た。もう後には引けない。
遠くで聞こえていた剣戟音もいつの間にか消えていた。喜びや戸惑い、不審など、その顔に浮かぶ感情は様々。
少ししてルイーズは深いため息をつくと振り返ってそこに立つ騎士を見た。
『兵を引け。騎士はこの場に残れ。何があろうとこの方をお守りしろ』
つまり、許しを貰えたということだ。ラフィーナは詰まっていた息をこっそり吐いた。
『はっ……!』
『引け!』
『帝国兵は後方へ引けー!』
ぞろぞろと周りの兵達が一方向へ移動して行く。ラフィーナは口元に笑みを浮かべた。そうしないと死に満ちたこの場所で自分を保つことすらも難しかったから。
『ルイーズ様は怪我はない?』
皆が移動する中で問いかけると、ルイーズも口元に微かな笑みを浮かべて答えた。
『ああ、大丈夫だよ。ネストル様を守れなくてすまなかった』
どうして皆自分に謝るのだろう。痛いのも苦しいのもネストルであって自分ではないのに。ラフィーナは無言で首を振った。
「王国兵も引け! 王が出られるそうだ!」
どこかから聞こえた言葉で残っていた兵達も反対方向へと移動する。その間から騎士が走り出て来た。騎士はラフィーナの前に跪く。
「王女殿下、これから王が向かわれます。少々お待ちくださいませ」
ええ、と頷く。この騎士にとって自分は「王女」なのかしら、と思う。
「……あなた、わたくしのことを知っていたの?」
騎士は「は?」と顔を上げる。
「わたくしのことを……お父様にラフィーナという娘がいることを知っていた?」
重ねて問う。騎士は視線を彷徨わせると、深く頭を下げた。
「申し訳ありません……」
それが答えなのか。胸の奥がズキリと痛んだ。騎士から目を逸らす。クレイトスの気遣うような視線を感じた。だが意識してそちらは見なかった。どんな顔をすればいいのか分からなかったから。
『……ねえ、ルイーズ様。ネストル様は、どこで倒れたの?』
問いかけると、ルイーズは困ったような笑みを浮かべると「こっちだよ」と踵を返した。その背について歩く。気が付けば帝国と王国の人間が左右に分断していた。
彼らは何を思っているのだろうか。まだ戦うのだろうか。地面に横たわる動かない体がいくつも視界に入る。ネストルの白い顔が脳裏をよぎった。急に地面が揺れ、ラフィーナは膝をついた。
『ラフィーナ様!』
クレイトスが駆け寄って来る。は、と息が漏れた。揺れていない。地面は赤く、黒く、そこにある。揺れたのは多分自分の方。じわりと額に汗が滲む。
『大丈夫よ』
小さな声でそう言って足に力を入れて立ち上がった。少し歩くとルイーズは足を止めた。
『ここだよ。出血が酷かった。この辺りが真っ赤になっていてね』
ルイーズの指さした辺りは黒ずんだ茶色い地面があった。この黒いのがネストルの血なのだろうか。ひび割れた土がその渇きを示している。しゃがみ込んでる手を伸ばす。地面に触れる前に手首が掴まれた。
『触れない方がいい。決して綺麗なものではない』
細い指、ルイーズだった。いいえ、と微笑む。
『汚くないわ。ネストル様がここにいた証だもの』
ラフィーナの言葉を聞いて、ルイーズはゆっくりと手を離した。ラフィーナの指先は今度こそ地面に触れる。日に照らされてぬるくなった土がほろりと砕けた。乾いた風が吹き抜け、それを攫って行く。
ネストルはここにいた。ここで倒れた。他の誰の為でもなく、自分の為に戦って。
指先が震え、涙が頬を伝った。照りつける太陽に頭の芯がくらりとした。




