95.銀の乙女
ラフィーナは風に煽られるフードを手で押さえ、目の前に広がる光景を馬の背から見た。そこは地獄であった。
離れていても聞こえる、絶えない怒号と剣戟音。赤と黒に染まった土。そこらに横たわる命を失った体は蹴られ、踏まれ、もはや尊厳などない。剣に斬られ、刺され、倒れるいくつもの体が見えた。
これが、戦争かーー。
乾いた風が運ぶ咽せ返るような血の匂い。巻き上がった砂が口に入る。鉄の味がした。
「ぅ……っ」
胃から何かが迫り上がってきた。口元を強く手で押さえて飲み込んだが、ひくひくと痙攣する胃はそれを拒んだ。
「ラフィーナ様!」
後ろに乗っていたクレイトスが素早く馬から降り、ラフィーナも下ろす。地面に足をついた時にはもう堪えられなかった。反射的に体を折り、透明な液体がびしゃりと地面に広がる。喉を焼く酸に咽せた。
大きな手に背中を撫でられる。「大丈夫ですか?」とは聞かれなかった。大丈夫なわけがない。こんなのを見て、こんな現実を知って、大丈夫でいられるわけがない。だけど、大丈夫よ、と小さく言った。袖で口を拭う。口の中に残る酸味は無視した。
「わたくしはあの場所へ行くわ」
声を絞り出し、視線をそちらへ向ける。敵味方入り乱れる場所。命の消えていく場所。ネストルはここにいたのだ。この中で戦い、倒れたのだ。自分を守る為に。
「わたくしとお父様が原因の戦争なら、止められるのはわたくしとお父様だもの」
目を瞑ると父の顔が浮かんだ。もうずっと会っていないけれど忘れるわけがない。大好きな父の顔。
ラフィーナは目を開けて隣に立つクレイトスを見た。
「一緒に行って欲しい、なんて言えないわ」
あんなところに行くのにそんなこと言えるわけがない。
「……だけど、ネストル様はわたくしに言ったの。死んではならぬ、と」
だから死ねない。約束をしたから。クレイトスはその先を聞く前に笑みを浮かべて頷いた。
「ラフィーナ様に初めてお会いしたあの時から今日まで、私がネストル様より下された命令はずっと変わりません。全て、ラフィーナ様の思うままに」
「え……?」
急な話に首を傾げると、クレイトスはラフィーナの前に膝をついた。
「我が主人があなたに全てを捧げているのです。私も全てを捧げましょう。この身も、心も、命も、全てをラフィーナ様へ」
じわりと涙が滲んだ。これはなんの涙だろう。手の甲で拭い、小さくお礼を言った。クレイトスが立ち上がる。
「行きましょうか」
クレイトスの差し出した手に、ラフィーナはそっと手を重ねた。
歩を進める度に近付く戦場。容赦なく照りつける太陽と空を切り裂くような風の音。耳が痛くなるほど甲高い金属音。苦痛や恐怖に耐えるような叫び声。
血と汗と何かが腐ったような匂いが鼻を刺す。服で鼻を覆いたかったが、止めた。ここで戦っている人に、命を落とした人に失礼だと思ったから。
人の顔が見分けられるほど近付くと、そこで戦っていた1人の騎士がこちらを見た。そして大きく目を見開いた。
『団長殿! 団長殿はどこだ!』
大きな声だったが、それは他の音にかき消される。襲ってくる剣を捌きながら、騎士は人混みの中へと消えていった。ラフィーナは大きく息を吸い、吐いた。
「……行くわ」
「はい」
クレイトスの頷きを見て、ラフィーナはマントの留め具を外した。その時、風が手伝うように吹いた。飛ばされそうになったマントをクレイトスが掴む。
戦場に似つかわしくない、真っ白なスカートが風に揺れた。銀の髪が太陽に煌めく。
いくつもの視線がラフィーナへと向いた。王国の兵だった。ラフィーナの近くにいる兵から握った剣を下ろしていく。そんな王国の兵に釣られるように、帝国の兵も剣を下ろしてラフィーナを見た。
一瞬にして、ラフィーナの近くでは戦闘が止まり、静寂が降りた。
「銀の乙女だ……」
誰かの呟き。それを皮切りに、他の声が叫んだ。
「銀の乙女だ!」
「銀の乙女……!」
「救いが来た!」
先ほどとは違う興奮を表した声だった。ガチャン、と剣が地面に落ちる。それはラフィーナ達の前から始まり、やがて戦場全体へと広がった。
「どうか王国に救いを!」
「銀の乙女よ!」
ただマントを脱いだだけなのに。ラフィーナは驚きながらも足を踏み出した。一歩進んだ途端、周りには静寂が落ちた。興奮が広がったのと同じように静寂も広がっていく。
自分の存在のあまりの影響力に、ラフィーナは戸惑った。兵達の間を歩く。血に濡れた土がスカートに跳ねた。涙を流して喜ぶ王国兵の姿があちこちに見えた。ああ、と思う。
この人たちは救いを待っていたのね。ここで命を奪い、奪われる恐怖と闘いながら、ずっとーー。
同時に不安も覚えた。自分に誰かを救うことなどできるのだろうか。父を止めることなどできるのだろうか。
『おい、銀の乙女ってただのお伽話じゃないのか?』
『あの娘が銀の乙女だってんなら俺たちはどうなるんだ?』
『なんで誰も殺さないんだ?』
『王国側の人間なんだろ?』
囁かれる声が耳に入った。隣を歩くクレイトスが剣に手を添える。空気がピリッとしたその時だった。
『婚約者殿……? なぜこのような場所にいらっしゃるのですか!』
騎士が2人、人の間から飛び出して来た。どうやら急に止まった戦いに何事かと様子を見に来たようだ。
『この方は副団長殿の婚約者だ! 剣を下ろせ!』
『団長殿を呼べ! 早く!』
その言葉で兵は何が何だか分からないといった表情で剣を下ろす。ラフィーナは帝国の騎士とよく似た服の騎士を見た。王国側の騎士だろう、と考えて。
「お父様……ドラウゼン王国の王にお会いしたいの。呼んで来てもらえるかしら?」
「……っ! はっ!」
声をかけられた騎士が走っていくのと、どこからか馬の足音が近付いて来たのはほぼ同時だった。




