94.閉じた瞼
音を辿り、一つの天幕の布を鷲掴んで、引いた。勢いのまま中へと飛び込んだラフィーナの鼻を独特の匂いが刺した。ツンとした、苦みや青さを含む、どこか冷たい香り。思わず足が止まった。
時が止まり、音が消えたようだった。ラフィーナの手首とテーブルの上で涼やかな音が余韻を残すのみ。
その静寂の中にネストルはいた。
不自然なほど白い顔。開かない瞼。ピクリとも動かない手。包帯が巻かれた上半身。微かに上下する胸だけがネストルがそこにいることを示していた。
「ネストル、さま……」
酷く空虚な声だった。それを合図にしたのか、また時が動き出す。後ろで誰かの足音と布の擦れる音が聞こえた。足音は入ってすぐ、ラフィーナの後ろで止まる。息を呑む気配がした。
簡素な寝台に沈む体には一切の力がない。その青白い顔から目が離せない。分かっていたのに。覚悟はしていたのに。体中の熱が引いていくのを感じた瞬間、足から力が抜けた。
「……っと」
大きな手に腕を支えられ、ラフィーナはなんとかその場に踏みとどまった。ゆっくりと後ろを見上げる。クレイトスがいた。
「失礼しました」
クレイトスは申し訳なさそうに微かな笑みを浮かべると、ラフィーナから手を離し、前方を見た。
『マカオン様、挨拶もせず不躾で申し訳ありませんが、ネストル様のご容体をお話し願えますか?』
その言葉にラフィーナも視線を辿る。天幕の隅に男が立っていた。気が付かなかった。ネストルしか見えていなかった。白髪混じりの髪を後ろで束ねた、清潔そうな男は、ラフィーナを見て微笑みを浮かべた。
『ラフィーナ様でございますね。医師のマカオンと申します』
『医師……』
ではこの人がネストルを救ってくれたのだろうか。どこかぼんやりととした頭のまま、ラフィーナへネストルへ視線を向けた。目は開かない。
『ネストル様は腹部を剣で貫かれ、倒れられました。現在は私の魔法により、これ以上の傷の悪化は防いでおりますが、それも一時的なものです。もう既に3日が経過しております。このまま意識が戻らなければ……』
そこで一度言葉が切れた。ラフィーナはのろのろとマカオンへ視線を移す。
『意識が戻らなければ、なに……?』
自分でも驚くほどに低い声が出た。体の内で何かが暴れる感覚がある。
ああ、これは魔力だわ。
『ラフィーナ様、お抑えください』
クレイトスの焦りを含んだ声が聞こえた。
感情を溜め込むな、とネストルは言った。それならば溜め込まずとも溢れてくる時はどうしたらいいのだろう。ラフィーナはおぼつかない足取りでネストルの元まで行くと、崩れ落ちるように寝台の横に座り込んだ。
『……私にできることは終わりました。後はネストル様次第でございます』
マカオンの囁くような声に次いで足音が出て行った。
体内で魔力が行き場もなく暴れる。蠢くそれに意識を向けてみる。抑えられない。パタリ、と何かがスカートの上に落ちた。丸い染み。何かが頬を伝うくすぐったさに、それが涙だと理解した。
「……死なないって、言ったもの」
口からこぼれた声は震えていた。背後でじゃり、と砂の音がした。クレイトスがそこにいるのだろうか。
ラフィーナには分かっていた。クレイトスが自分と同じ心境であること。それなのに無理して笑みを作り、普段通りでいようとしていること。クレイトスは強い。だけど自分はそうはあれない。苦しいほどに締め付けられた胸を、涙を隠せない。心を抑えられない。
顔を上げるとすぐ近くに冷たい相貌があった。閉じた瞼の下の薄い色の瞳はラフィーナを映さない。鋭利な真っ直ぐな言葉は語られない。命がそこにないような感覚さえもある。
手を持ち上げると2つの鈴が同時に鳴った。チリチリと小さな音。ピクリとも動かない手に触れる。その冷たさにビクリと体が震えた。涙で霞んだ視界。ラフィーナは冷たい手を握り締めた。自分の体温と一緒に命も分けてあげられたらいい。そう思いながら。
瞬間、体で蠢いていた魔力が動きを止めた。まるで何かに抑えられるように。
ラフィーナは目を丸くして、握った手を見た。ネストルなのか。抑えろ、と言っているのか。驚きで一瞬だけ止まった涙がまたはらはらとこぼれた。
「そこに……いるの……?」
返事はない。目は開かなければ手も動かない。でも自分の体の中の魔力は完全に動きを止めた。ネストルは確かにここにいる。
途端、外が急に騒がしくなった。
『二番隊が全滅だ!』
『出られる兵は出ろ!』
『騎士団長が囲まれている!』
ハッとして振り向いた。クレイトスが強張った表情で天幕の閉じた布を見ている。一枚向こう側でバタバタと忙しない足音がいくつも聞こえた。
ーーラフィーナ様は戦場で何をなされる?
不意にシルヴァンの声が蘇った。今この瞬間も戦争は続いている。失われている命がある。銀の乙女と呼ばれた自分。予言。
銀の乙女が王国を救う。
ならばその王国と戦っている帝国はどうなる? 分からない。握ったままのネストルの手を両手で握る。
「わたくしは何をするべきなの……? 教えて、ネストル様」
ラフィーナは縋るように目を閉じた。今まで示してくれていたように。どうかこの先を示して欲しい。何をするべきか、目を開けて教えて欲しい。
「分からない……」
震える声で呟いた、その時だった。
ーー分からないなどという言葉で誤魔化すな。偽るな。逃げるな。恐れるな。
ネストルの声が聞こえた。覚えている。いつかの言葉。
ーーお前はお前の足で立ち、お前の頭で考え、お前の心で感じねばならぬ。
まるで頭を殴られたような衝撃があった。目を開けてネストルの顔を見る。そう、そうだ。ネストルは先を示してなどくれない。厳しく、鋭い言葉の全てはいつもラフィーナの内へと向いていた。
ーーお前はお前の思うままにあれ。
ーーお前の心も言葉も父や兄のものではない。俺のものでもない。お前だけのものだ。
ーー誓おう。俺はお前の心を守る。お前の心がお前だけのものであるように。
ネストルがラフィーナに望んでいたことは最初から一つだけだった。
行かなきゃ。こぼれた声は外の騒がしさにかき消され、ラフィーナ自身の耳にも届かなかった。だがその瞳は先ほどまでの空虚さが消え、確かなものが映っていた。
ラフィーナはネストルの手をもう一度強く握り締め、離した。勢いよく立ち上がり振り向く。クレイトスが驚きを目に浮かべてラフィーナを見た。
「お願い、クレイトス。わたくしを連れて行って。戦場へ……お父様のところへ……!」




