93.重なる音
「お、あれだな」
窓から外を見たシルヴァンがそう言ったのは2日後の昼のことだった。ラフィーナも視線を窓へ向ける。少し先にたくさんの何かが見える。布でできた小さな家。何かしら、と思っているとシルヴァンが口を開いた。
「あれは天幕だ。布や皮でできた簡易的な家で、皆あの中で体を休める」
「てんまく……」
ラフィーナは小さく呟いた。森も木もない荒野。そこに広がる数えきれないほどの天幕。このおびただしい数の天幕の分だけ、戦場に出る人がいるのだろうか。そう思うと胸が締め付けられた。
ふとコツン、と小さな音がした。窓の外に鳥がいる。その嘴がもう一度コツン、と音を鳴らす。シルヴァンが長い手を伸ばして窓を開けると、鳥は高い声で鳴いた。
「そうか」
シルヴァンが頷き、鳥が飛び立つ。ラフィーナは何度見ても慣れない、不思議なやり取りに驚きながらもシルヴァンへと視線を向けた。
「ネストル様は変わりない。意識は依然としてないが、悪くなっているわけでもないらしい」
微かな吐き気を覚える。意識して息を吸った。
「……そうなのね」
レガルディア城で報せを聞いて3日。もしかしたら何事もなかったかのような涼しい表情のネストルに会えるかもしれないとどこかで期待していた。
少しして馬車が止まった。開いた窓からざわめきが聞こえる。窓の外に人が集まるのが見えた。
『おい、誰だ。こんなでけえ馬車……貴族か?』
『ここは戦場だぜ? お貴族様が何をしに来んだよ』
扉が開き、クレイトスが顔を出す。ラフィーナはその手を借りて地面へと降り立った。ずっと馬車に揺れていた体は、硬い地面によろめいた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、平気よ」
クレイトスの手を握ったまま、少しだけ足踏みをする。まだ揺れているようで、少し気持ち悪い。そんなラフィーナを見てクレイトスは何も言わずに手を貸してくれていた。
周りに人がどんどん集まって来る。最低限の布を身につけた男達の姿。もしやこんな姿で剣の前に立つのだろうか。そう思うと、背筋に悪寒が走った。
乾いた風に照りつける太陽。遮るものもないようなこんな場所で……?
風が運ぶ血と汗の匂い。この場所でどれほどの命が消えていったのだろう。思わずクレイトスの手を握る手に力が入った。
「ラフィーナ様……」
気遣うような声を聞き、ラフィーナはただ首を横に振った。その意味は自分でもよく分からない。
『銀髪だ、皇族か?』
『馬鹿言え、こんなところに皇族がいるわけないだろ』
自分たちを中心に円を描くように集まった男達。物珍しそうな視線を受け、ラフィーナは無意識にクレイトスへ体を寄せた。こんな視線を受けたのは初めてではないし、いつもだったら気にならない。だけど心に渦巻く不安と、言いようのない恐怖に駄目だった。
『おい、あいつ……あの大男、王国の貴族じゃねえか?』
どこかから聞こえた声に、物珍しそうな視線が、悪意に満ちたものに変わった。
『敵襲か!?』
『早く殺せ!』
「おおっと……俺を知ってる奴がいたか」
後ろでそんな声が聞こえた。しかしその声にはどこか余裕も感じる。
騒然となる中、剣を抜く冷たい音が聞こえ、クレイトスがため息をついた。
「エリオス様から報せが来ているはずなのですが……」
すみません、と言われ、握っていた手を離すと、クレイトスは一歩前へ出て、腰に下げていた剣に手を添えた。緊張感が高まる。一番前にいた男が一歩前へ踏み出した、その時だった。
『なんの騒ぎだ!』
そんな声に、今にも斬りかかろうとしていた男達が振り返った。ラフィーナはクレイトスの手が剣から離れるのを視界の端に見た。ラフィーナ達の正面の人の壁が崩れる。そこから厳しい表情の騎士が2人出て来た。
騎士達はクレイトスを見た途端、顔から厳しさを消した。
『クレイトス殿! 婚約者殿!』
『お早いお付きですね』
クレイトスも少し表情を和らげた。
『少しですが物資を持って来ました。お使いください』
『ありがとうございます』
2人の騎士はラフィーナを見て、その前に跪いた。
『副団長殿は未だ目を覚まされません』
『お守りすることができず、申し訳ありませんでした』
見慣れた騎士の服。それを見ていると涙が込み上げた。ここにネストルがいる。
『謝らないで。ネストル様は生きてらっしゃるもの』
震えていた。まるで自分に言い聞かせるようだった。ラフィーナは手の甲で目に浮かんだ涙を拭う。鈴がチリン、と音を立てた。この場に似つかわしくない音に、騎士がハッとしたように顔を上げた。
『ネストル様はどこ?』
震える唇を隠すように結ぶ。騎士は立ち上がると、1人が『こちらです』と踵を返した。
「フェルナード家のご当主殿、陛下よりお話を伺っております。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
「うむ、助かる」
後ろからそんな声が聞こえた。それを背に騎士の後ろを歩く。クレイトスとシルヴァンの足音も後ろに続いた。
『兵が大変失礼いたしました。騎士以外のほとんどが平民です。どうかご容赦ください』
『気にならないわ』
本心ではあったが、強張った声が出た。この先にネストルがいる。そう思うと心が張り詰める。少しでも早く、と急く。歩くたびに手首で鳴る鈴の音が酷く大きく聞こえる。
ラフィーナが気持ちを落ち着ける為、こっそりと大きく呼吸をした時、騎士がふっと笑った。
『やはり婚約者殿だったのですね』
かけられた言葉の意味が分からない。左右にいくつも並んだ天幕から、兵や騎士の物珍しそうな視線をいくつか感じた。だがいつもより早く動く足は緩まずに進む。
『こちらに来てからというもの、副団長殿はお一人になられるといつも鈴を見ておられました。騎士達の間では、対の鈴を持つのは誰か、と騒ぎになったものです』
思わぬ言葉に少しだけ足が緩んだ。ラフィーナは自身の手首に視線を落とす。自分がこれにネストルの存在を映していたように、ネストルも自分の存在を意識してくれていたのだろうか。
『タリア様か婚約者殿か、賭けまで始まる始末だったのですよ。団長殿が止めておられましたが』
騎士はくすくすと可笑しそうに笑った。
『あなたはどちらに賭けられたので?』
後ろからクレイトスの声が聞こえた。面白がるような声色。クレイトスはこの騎士と親しいのかしら、と思った。騎士は笑みを浮かべて振り返る。
『私は出陣前と副団長殿と婚約者殿を見ていたので、婚約者殿だと思っておりましたよ。賭けには参加しませんでしたが』
副団長殿が怖いので、と騎士は笑いながら付け加えた。胸が締め付けられる。ラフィーナは意識して口元に笑みを浮かべたが、今にもあふれそうになる涙を堪えるのに必死だった。
『出陣前のあの時は皆が驚いておりました。あの副団長殿がまさかあのように婚約者殿を思っていらっしゃるとは……私も天と地がひっくり返るような衝撃がありました』
騎士のはきはきとした声を聞きながら、ラフィーナは前だけを見て歩く。早く、早くネストルの元へ。ただその一心で。
『騎士は皆、副団長殿を恐れながらも尊敬しております。だからこそ、副団長殿が婚約者殿を大事にされているところを見た時は、皆内心では喜んだと思います。例え、あの時副団長殿が我らを見捨てたとしても』
よく分からない。ネストルが騎士達から慕われている、という話でいいのだろうか。頭の片隅でぼんやりと考える。
『婚約者殿、あなたの声を聞けば副団長殿は戻って来られるかもしれません。ですので、どうかお願いします』
騎士はそう言うと、足を止めて振り返り、ラフィーナへ向かって頭を下げた。ラフィーナも足を止める。
『我らの副団長殿をお連れ戻しください』
今にも泣き出しそうな震える声だった。そうか、この騎士もネストルを心配していたのか。不安なのは自分だけではないのだ。
ラフィーナは深く呼吸をし、乱れた髪を耳にかけた。落ち着かなければならない。耳元で鈴の音が鳴るのを聞く。
不意に音が重なった。どこかから同じ音が聞こえる。一瞬、頭が真っ白になった。次に気が付いた時、ラフィーナは駆けていた。重なる軽やかな音に向かってーー。




