92.ぬるい闇
馬車の揺れに合わせて鳴る鈴の音を聞きながら、ラフィーナは窓の外を眺めていた。レガルディアの地図を見たことはある。だけどここがどこなのかは分からない。クレイトスとシルヴァンに任せるしかない。こんなことならもっと勉強をしていたらよかった。
小さくため息をついて視線を落とすと、向かいで寝ているシルヴァンが見えた。寝るから変わってくれ、とクレイトスに言ったシルヴァンは、本当に寝た。それもたまにいびきまでかいている。揺れて不安定な中でよくこんなにも深く眠れるものだと、ラフィーナは少し驚いた。
太陽が遠くの山へ隠れようとする頃、馬車が止まった。窓の外を見てみたが、村や町ではない。それに少し前に食事の為に小さな村で止まったはずだ。どうしてこんなところで止まったのだろう。扉を開けたクレイトスは爆睡するシルヴァンを見て苦笑しながらも、ラフィーナへ視線を向けた。
「右に行くと国境、左に行くと街があります。どうしましょうか?」
「右に行くと国境、左に行くと街……?」
クレイトスの言葉を復唱する。質問の意図が分からない。
「夜の間も進みますか? それともベッドで休まれますか?」
重ねられた質問。息を呑んだ。
「夜も、進めるの……?」
馬車は夜は走れないのだと思っていた。だから夜は進めないのだと。
「鳥が夜道を案内してくれる。ラフィーナ様が望むならこのまま進もう」
いつの間にかシルヴァンが起きていた。大きなあくびをしながら馬車を降りたシルヴァンは、ピュイ、と口を鳴らした。すぐに羽音が近付いてくる。
「ええ、お願い。少しでも早くネストル様のところへ……」
進めるのなら進みたい。ベッドで眠れなくても、ずっとこの狭い空間でもいい。一刻も早くネストルのところへ。
シルヴァンは「うむ」と頷くと前方へ歩く。御者台に座ったのだろうか。馬車が揺れる。クレイトスも中へ乗り込むと、扉を閉めてラフィーナの向かいに座った。すぐに馬車は動き出す。会話のない2人の行動。ずっと寝ていたシルヴァン。そこからラフィーナは察した。
「……最初からこの予定だったのね」
クレイトスは微かな笑みを口元に浮かべ、柔らかな声で言った。
「ラフィーナ様がそう望まれるだろうと思いまして。夜も走れば3日もあれば着くでしょう」
ありがとう、と小さく呟いた。もちろん早く行けることは嬉しい。だけど、クレイトスやシルヴァンが自分の気持ちを慮ってくれた、その気持ちが嬉しい。
「しかし睡眠はきちんと摂ってくださいね。馬車で眠ることができないのでしたら、明日からは夜は街で休むようにしますから」
脅しともとれる言葉にラフィーナはこくりと頷いた。窓の外はいつの間にか薄暗くなっており、深い青が空を覆っていた。胸が締め付けられる。ラフィーナは唇をきつく結び、視線を落とした。手首の鈴が微かな明かりを反射して鈍く光る。馬車の揺れに合わせて鳴るこの音はネストルの耳にも届いているだろうか。
ラフィーナ様、と小さな声に呼ばれて顔を上げる。クレイトスの影が揺れる。
「予言のことはお気になさる必要はありません」
「聞いていたの?」
ええ、と頷く声。
「帝国の人も知っているの? 『銀の乙女』と噂されていたのを聞いたわ」
あの時はそれがなんなのか分からなかった。ネストルの『氷月』のような異称かと思っていた。だけどあれは予言のことを言っていたのだ。
「はい。ですがラフィーナ様のお耳に入れないようにしておりました。エリオス様とネストル様が必要ないと判断されたので。申し訳ありません」
「いいのよ」
エリオスやネストルが必要ないというのなら、自分には本当に必要なかったのだろう。謝られる理由はない。だけど、知ってしまった以上、それを無視することもできない。
ラフィーナは腰を浮かして窓へと手を伸ばし、少しだけ開けた。ぬるい空気が馬車の中を侵食する。
「そのようなことは私がやります。ご自分でせずにおっしゃってください」
ため息混じりの声が聞こえた。大丈夫よ、と小さく言う。伸びてきたクレイトスの手を軽く握り、座り直した。体に響く揺れが少しの眠気を誘う。
「……どうしてわたくしはここにいるのかしら」
兄妹であるエリオスもタリアもここにいないのに、自分はここにいる。ネストルの元へ向かっている。
「わたくしが行ってもネストル様の怪我が治るわけでも、戦えるわけでもない。迷惑をかけるだけだわ。分かっているのに、どうしてわたくしはこの先へ行こうとしているの?」
それはクレイトスに聞いているようにも自分自身に聞いているようでもあった。先へ進む馬車の音、鈴の音、鳥の小さな声。混ざり合う音を聞きながらラフィーナは目を閉じた。
「それが心です」
クレイトスがふっと笑う気配がした。ラフィーナは目を開け、心、と噛み締めるように呟いた。
「そうするべきでないと頭では分かっていながらも、どうしても合理的でない行動をとってしまう。それが人間で、心です」
ガタン、と馬車が大きく揺れた。それに呼応して、鈴も一際大きく鳴る。その存在を示すかのように。
「ラフィーナ様がここにいるのは、ネストル様へ会いたいと思う心があるからです。例えその結果、誰に迷惑がかかろうと、ネストル様が怒ろうと、誰にもその心を否定することはできません」
柔らかな声が言い切った。でも迷惑がかかるのはいけないわ、と思う。口に出ていたのか、クレイトスが言った。
「仕方ありません。ラフィーナ様がネストル様の元へ行きたいのですから」
ラフィーナは一瞬だけ固まった。あまりにも予想外な言葉だったから。仕方ない……仕方ない? 人に迷惑をかけるのに、仕方ない? それでいいのだろうか。
クレイトスは今どんな表情をしているのだろう。薄闇の中目を凝らしてみたがよく見えない。でも多分微笑んでいる。
「……そう、仕方ないのね」
仕方ないと言ってもいいのだ。この心を肯定していいのだ。少しだけ呼吸が楽になった。壁に肩を預け、目を閉じる。
「わたくしは何をするべきなのかしら」
独り言のような問い。ずっと考えていた。シルヴァンの言葉と予言。自分は行って何をするのか。
「ネストル様はわたくしに何を望んでられるのかしら」
「それは誰よりもラフィーナ様がご存じですよ」
柔らかな、温かな声。
「……分からないわ」
ラフィーナは呟いて、ぬるい闇に意識を預けた。




