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91.重い空気

「クレイトス……!」



 ラフィーナが腰を浮かすと、クレイトスは「お待たせしました」と微笑んだ。シルヴァンが馬車を降りる。それまでラフィーナの膝の上で遊んでいた小鳥も、思い出したかのようにシルヴァンの方へと飛び移った。



「俺は少し歩いて来る」



 そう言うとシルヴァンはどこかへと歩いて行ってしまった。クレイトスが代わるように中へと乗り込んでくる。



「怪我はない?」


「ええ、大丈夫ですよ」



 その言葉通り、怪我をしているようには見えない。どころか服の乱れすらも一切ないように見える。クレイトスは足元に剣を置いた。



「危ないことはしないでちょうだい」



 安堵しながらもそう口にする。「問題ありません」とクレイトスは言った。



「ただ、ネストル様の魔法がない状況で飛び降りたのは久しぶりで、少々肝が冷えました」



 ニコリと笑むクレイトス。ラフィーナは何と返せばいいのか分からなくて、意識して口元に笑みを浮かべた。しかしその笑みはすぐに消えた。


 シルヴァンはどこへ行ったのだろうか。窓の外へ視線を向けると、粗末な家と走り回る子供達の姿が見えた。少しの間ぼんやりとそれを眺める。しかし心はずっと急いていた。早く、少しでも早くネストルの元へ。


 何のために?


 心のどこかで声がした。何かが喉に引っかかっているような気持ち悪さがある。分からない。何も分からない。



「ラフィーナ様」



 呼ばれた声に窓から視線を移す。クレイトスが気遣うような目を向けていた。早く、と言葉が出かかったその時、扉が開いた。突然のことに驚くラフィーナを気にせず、シルヴァンは中へと乗り込む。馬車が揺れ、ラフィーナの手首でチリン、と小さな音がした。



「クレイトス、悪いがそっちに座ってくれ。男と並んで座る趣味はない」



 その言葉にラフィーナは腰を浮かし、横へずれた。クレイトスは苦笑しながらも、「失礼します」とラフィーナの横へと移動する。シルヴァンが向かいに座った。



「食事を分けてもらってきた。食べたら出発しよう」



 シルヴァンが膝の上に広げた布にはサンドイッチとりんごが2つ包まれていた。



「ありがとうございます。ラフィーナ様、どうぞ」



 ラフィーナは差し出されたサンドイッチを見て、首を振った。



「いらないわ。2人で食べて」



 食欲がない。食べる時間があるなら少しでも進みたい。だけどその言葉は飲み込んだ。自分では馬車を動かすことはできない。無力なこの身が憎い。


 視線を落とすと、「ラフィーナ様」と呼ばれた。その声に含まれた咎めるような響きに思わず顔を上げる。まるでネストルを呼ぶ時のような声だったから。クレイトスは困ったような笑みを浮かべていた。



「食事は摂ってください。気持ちが急くのも不安も分かります。ですが、ラフィーナ様が倒れてしまうようなことがあれば私がネストル様に怒られてしまいます」



 もし自分が倒れたら……。ネストルの反応を想像してみる。多分呆れたようにため息をつく。でも怒らないと思う。



「ネストル様は怒らないわ。ため息をつくか舌打ちをするくらいよ」



 しかしクレイトスは「いいえ」と首を振った。



「私はラフィーナ様よりも長くネストル様と共にいます。あの方は絶対に怒ります。短気な方ですから」


「……そうだったわね」



 そう、何度も怒らせたことがある。何故怒るのか分からない時もある。クレイトスが言うのだったら、ネストルは本当に怒るかもしれない。


 怒った顔でもいい。早く見たい。言葉を交わしたい。手を動かすと軽やかな音が鳴った。



「りんごをもらってもいいかしら?」


「もちろんだ」



 差し出した手にシルヴァンがりんごを置いてくれる。空気よりも冷たいそれに歯を立てると瑞々しい甘みが口の中に広がった。


 クレイトスがラフィーナを見て安堵したように小さく息を吐く。そしてサンドイッチを齧った。



「あ」



 シルヴァンだった。その視線はクレイトスに向いている。



「何でしょう?」



 クレイトスの問いにシルヴァンは目を伏せた。



「その燻製肉……つい先ほど子豚が母を想って嘆いていた」



 クレイトスが咽せた。このお肉がその子豚の母親なのかしら、と思いながらクレイトスの背中をさする。



「す、すみませ……」



 クレイトスの目も声も揺れていた。クレイトスがこんなにも動揺するところを見たのは初めてだ。咳がおさまったクレイトスは手を持ったサンドイッチとシルヴァンを交互に見る。その表情は葛藤しているように見えた。ラフィーナも手を引いてシルヴァンを見る。



「悪い、冗談だ」



 シルヴァンは先ほどの悲しげな表情から一変、にかっと笑った。はああああ、と深く息を吐く音が隣から聞こえた。クレイトスが頭を抱えていた。



「そのような冗談はおやめください……」


「いや、すまん、重い空気を少しでも軽くしようかと思ったんだが」



 シルヴァンはそう笑い、自身もサンドイッチを齧った。クレイトスはもう一度大きく息を吐くと、「余計に重くなります」と小さく呟いた。


 シルヴァンは目を細めてクレイトスを見ると、



「お前はいい奴だな」



 そう言って口元に笑みを浮かべた。

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