89.鈴の音
一際大きな揺れと共に、リン、と音がした。はっとした。体に感じる振動。絶えず聞こえる、チリリ、と小さな音。座ったまま屈む誰か。四角い狭い空間。馬車の中だった。
どうして自分は馬車に乗っているのだろう。そう思った時、屈んでいた誰かが顔を上げた。
「落とされましたよ」
「クレイトス……?」
その手には小さな鈴。ネストルにもらったそれだった。パチパチ、と二度瞬きをするラフィーナ。どんな状況で、どこに向かっているのだったか。
自分の部屋にいた。そこにタリアが来て、脚色された本に笑っていて、そして……
「ネストル様……!」
反射的に腰を浮かし、よろめいた。クレイトスの手に支えられてもう一度腰掛ける。ラフィーナは青ざめた顔でクレイトスを見た。
思い出した。シルヴァンが来てネストルが戦場で倒れたと言ったのだ。クレイトスが微笑みを浮かべ、鈴をラフィーナの手の中へと握らせた。手の中で軽やかな音が鳴る。
「ネストル様はどうなったの? わたくしはどうして馬車に乗っているの? どこに向かっているの?」
離れる前にクレイトスの手を握り、ラフィーナは捲し立てた。手が震える。クレイトスにも伝わっているだろうが、そんなことも気にならない。クレイトスは僅かに目を見開いてラフィーナを見た。
「覚えてらっしゃらないのですか?」
「お部屋でシルヴァン様が来たところから記憶がないわ。わたくしはどうして馬車に乗っているの? ネストル様は?」
再び問う。クレイトスの手を握る手に力が入る。分からない。ネストルはどうなったのか。分からない。
クレイトスは「順番にお話ししましょう」と微笑んだ。
「報せを受けた後のラフィーナ様は酷く取り乱し、ネストル様の元へ連れて行って欲しい、とシルヴァン様に詰め寄られたそうです」
全く覚えていない。でもしたかもしれない。だって今いるのが自室だったら同じことをするだろうから。
クレイトスの視線が窓の外へ向く。ラフィーナもその視線を追う。自然が広がっている。ラフィーナの知っている場所ではないことは確か。
「今は帝都から少し進んだ街道を走っています。5日後にはネストル様の元へ到着することでしょう」
「5日? そんなにもかかるの? もっと早く行けないの?」
身を乗り出したラフィーナに、クレイトスは「落ち着いてください」と眉を下げて微笑んだ。落ち着いてなんていられない。一刻も早くネストルの元へ行きたい。5日も我慢できない。
馬車の揺れに合わせて手の中で鳴る鈴が、まるでネストルの危機を知らせているようで胸が締め付けられる。その音を聞きたくなくて、手の中に音を押し込めた。
「ラフィーナ様、お気持ちは分かります。私も同じ気持ちですから。ですが、馬に乗ることもできないラフィーナ様は馬車で行く他、手段はありません」
一瞬、クレイトスの目に深い色がよぎった。はっとした。そうだ、心配しているのは自分だけじゃない。クレイトスは一人だったらきっと馬でもっと早く駆けられるのだ。それを自分に合わせてくれている。そんなことにも気が付かなかった。
「ご、ごめんなさい……」
慌てて手を離す。口から出た謝罪は揺れていた。クレイトスは「いいえ」と微笑んだ。響きを失った金属音がカラカラと転がる。馬車の中にいる経緯は分かった。だけどどうして自分は鈴を持っているのだろう。
手を開くと再び響きを取り戻した音が鳴る。
……これだけがわたくしとネストル様を繋ぐものだから。
答えはすぐに出た。幾度となく言葉を交わし、同じ時を過ごした。だけど二人の間に形に残るものはほとんどない。この小さな響きだけが繋がっている。
「ラフィーナ様、また落としてしまってはいけません。紐がありますので手首に結んでおきましょう」
クレイトスはそう言って何処からか細い紐を取り出した。確かにそうね、と思い、ラフィーナは鈴を手渡す。手首に結ばれたそれはチリン、と軽やかな音を鳴らした。
「ラフィーナ様、お忘れのようですので念の為に言っておきます。城を出る前、ラフィーナ様はお力を使われました」
「力……魔法のことかしら?」
ええ、とクレイトスは頷いた。
「ラフィーナ様のお力は以前にも増して不安定になっておいでです。ラフィーナ様の望まない事態が起こらないよう、私も手を尽くすつもりですが、どうかお気を付けください」
ええ、と頷いたが、どうすればいいのか分からない。ネストルは感情を溜め込んではいけないと言っていた。溜め込んだ覚えはない。ただ、我を失うほどの衝撃があったから。
ネストルはどうなのだろう。どうしてクレイトスはそれを語らないのだろう。よほど悪いのだろうか。聞きたい。でも、聞きたくない。
胸の辺りが気持ち悪い。息が上手く吸えない。胃から込み上げるこれは何なのだろう。分からない。
「……窓を少し開けましょうか」
クレイトスがそう言って腰を浮かす。少しだけ開いた窓からぬるい風が入って来た。大きくなった車輪の音。気を紛らわすどころか、不安が増長する。
膝の上に置いた手が震える。握りしめても止まらない。沈黙。馬車の音にたまに小さな鈴の音が混ざるだけの空間。ラフィーナはとうとう耐えきれなくなり口を開いた。
「ネストル様は、どうなの?」
クレイトスの視線が、言葉を探すように彷徨った。クレイトスは優しい。だから、
「嘘はつかないで」
先に言った。クレイトスが笑みを浮かべる。それはまるで「仕方ありませんね」と言っているようだった。
「ネストル様は腹部を刺されたそうです。未だ意識は不明。命は繋がっていますが、今後はどうなることか分からない、とのことです」
覚悟はしていた。酷いのだろうなというのも分かっていた。だけど言葉にされると覚悟していた以上の痛みが襲ってきた。ラフィーナは手首で揺れる鈴を、縋るように握りしめた。




