88.鳥の報せ
『だって! あはははは!』
タリアは読み終えると腹を抱えて笑い出した。ラフィーナは2つのカップをテーブルに置いて再び椅子へと腰掛ける。
『あのネストル兄さまが全部投げ出して1人で帰って来るわけないじゃん! 涙があふれるわけないじゃん! 愛してるなんて言うわけないじゃん! あの兄さまが……!』
音を立ててテーブルを叩き、目に涙を浮かべて笑うタリアを見ながら、ラフィーナはカップに口をつけた。確かに物語の中のネストルはラフィーナの知らないネストルだ。だけど気になったのはそこではない。
『エリオス様達のとは随分と雰囲気が違うのね。愛してるって言っているわ』
『姉さまとの別れを見てた貴族が衝撃を受けたんだと思うよ』
衝撃を受けたら文章が変わるのだろうか。首を傾げると、タリアは口元の緩みをそのままに本をパラパラをめくった。
『あのネストル兄さまが姉さまのことをあんなに大事にしてるとは誰も思ってなかったし、氷月とまで呼ばれて怖がられてる兄さまにあんな一面があったってことで、女の人たちの心のどこかに刺さったんだよ。それが創作意欲を沸き立てて、妄想のままに書かれた結果が、多分これ』
『そうなのね……』
『うん。皆兄さまは姉さまのこと嫌ってるって思ってたみたいだしね。まああんな態度を取ってたら当たり前だよね』
確かに素っ気ない態度ではあるけど、ネストルは誰に対してもあんな感じだ。それが分かってからラフィーナはあまり気にしなかったが、側から見ていたらそう見えたのか。
『いやー、でもこの感じだったら兄さまと姉さまを元にした本はまだ何冊か出てきそうだね。ネスティオ様シリーズになるんじゃない?』
そう言いながらタリアは、あっはは! と可笑しそうに笑う。ネスティオ様シリーズ。読んでみたい気もするが、そこに自分が元になった人物が出て来るのはなんだか少し恥ずかしい。本にするならネストルだけでお願いしたい。
『もしかしたら姉さまのところにも作者が話を聞きに来るかもしれないよ。これは出陣前の別れのシーン以外全部捏造っぽいから』
ひくりと笑みが引き攣った。
『それは……ご遠慮願いたいわね』
自分が本の題材になるなど、それもネストルとの恋物語など恥ずかしい。書くならせめて全て妄想であってもらいたい。
『でもね、この本を書いた人の気持ちはあたし分かるなぁ。あたしもあの時すっごいびっくりしたんだよ』
『あの時、と言うとネストル様が発たれる時のお話かしら?』
ラフィーナの言葉にタリアは『そうそう』と頷く。
『兄さまが姉さまのことを大切に思ってることは知ってたけど、まさかあんなにも素直な言葉が兄さまの口から出て来るとは思わなかったから。それに髪にキスなんてお話の中みたいじゃない!』
タリアはうっとりとした表情で目を閉じた。あの時を思い返しているのだろうか。
『ああ、絵にしたい……』
ポツリと聞こえた言葉に、ラフィーナはぎょっとした。文字だけならばまだしも、絵にするなど……。そんなラフィーナを見てタリアはにこりと笑った。
『大丈夫、あたしはしないよ』
ほっと胸を撫で下ろす。のも束の間だった。
『もう誰かしてるだろうし。もうちょっとしたら出回るだろうから』
続いた言葉に、言葉を失った。
『あ、でもやっぱり絵師を呼んで描いてもらおうかな。それでお城におっきく飾るの! 入ってすぐのところとかどうかな?』
『ええと……』
嫌だ。考えるまでもなく嫌。それにそんなことをしたらネストルが怒るどころの話ではない。タリアだってそれくらい分かっているはず。冗談だろうか。お茶を飲むタリアを、困惑を隠さずに見ると『冗談だよ』と笑顔が返ってきた。
『兄さまに怒られるからね』
楽しみだね、とタリアは笑った。ラフィーナは何が楽しみなのか分からなくて首を傾げる。タリアはニマニマして言った。
『ネストル兄さまと義姉さまが帰って来てこの本を読んだ時の反応が』
ネストルがこの本を見たらなんと言うだろう。いや、何も言わないかもしれない。ただ顔をしかめるだけかも。嫌そうなあの顔を思い出して少し笑えた。笑って、胸がひりつく。
嫌な顔でもいい。怒った顔でもいい。早く見たい。
『いやー、でもこの本を書いた人は妄想が激しすぎるよね。いくらなんでもネストル兄さまが泣くとかぜっっったいない! 愛してるとか言う人じゃない! 兄さまは思っても言わないから!』
あたし兄さまの泣くとこなんて一回も見たことないもん! タリアは力いっぱいそう言った。ネストルが泣くところを見たことがない? ネストルが泣くことは絶対にない? そんなことはない。だってあの時、
「愛がないと生きられぬと言うのなら、俺がお前を愛してやる……」
ラフィーナは小さな声で呟いた。タリアがきょとんとしてラフィーナを見る。
『ネストル様はそう言って、涙を流してられたわ』
ラフィーナは自らの頬に触れる。あの冷たさを覚えている。凍てつくような涙、燃えるような熱を帯びた目。ネストルの心。
タリアはポカンと口を開けてラフィーナを見ていた。
『に、兄さまが、言ったの……? 泣いたの……? あの兄さまが……?』
呆然とした声に頷く。タリアは信じられない、と口元を手で押さえた。
『ええ。だから死んではならない、と』
タリアの目が大きく見開かれる。驚きに満ちた顔に段々と笑みが広がり……
『そんなの、小説より小説じゃない! そんな兄さま知らないんだけど!』
目が輝いた。
『もっと詳しく! そんなにいいエピソードがあるなら実話で書いてもらおうよ!』
『え、えぇ……?』
思わぬ反応にたじろぐラフィーナ。タリアは『他にもないの!?』とキラキラした目で問い詰める。
『いえ、あの……』
他と言われてもどんなものが物語になるのか分からない。大体そんなことをしてはネストルが怒るだろう。
何か別の話を……。話を変えようと話題を探していると、誰かの足音が近付くことに気が付いた。急いでいるような足音。誰かしら? 首を傾げた時、ノックの音が響いた。
「失礼いたします。ラフィーナ様、タリア様、ご報告です」
入って来たのはシルヴァンだった。少し遅れてイリスも入って来る。ラフィーナとタリアは座ったまま、そちらへと視線を向ける。シルヴァンの顔には微かな緊張が浮かんでいた。
「たった今、鳥の報せがありました」
鳥の報せ。一瞬なんのことか分からなかったが、すぐにシルヴァンが動物と意思疎通できることを思い出した。鳥が何かを伝えてくれたのか。なんだろう。
シルヴァンは一呼吸置いて、ゆっくりと口を開いた。
「ネストル様が戦場で倒れられました」
頭が真っ白になった。顔に浮かんでいた笑みが消える。今なんと言われた? シルヴァンはなんと言った?
「兄さまが、倒れた……?」
不自然に静かな空間にタリアの呆然とした声だけが聞こえる。
「ネストル様が……?」
空虚な声だった。それが誰の声か、一瞬分からなった。自分でも初めて聞くような声だったから。
「腹部を刺され、意識不明です。恐らく命に関わる重症かと」
シルヴァンの顔にあの豪快な笑みはなく、溌剌とした声は重々しく、それがどんなに重い事態なのか物語っていた。
「命に関わる? 嘘でしょ?」
タリアの声が遠くに聞こえる。ネストルが怪我? 命に関わるって何? 死ぬかもしれないってこと……?
タリアが立ち上がる。椅子の音も、タリアとシルヴァンの会話も、何も聞こえなかった。
一切の静寂の中、世界が崩壊する音だけが聞こえた。




