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9.ふわふわ

 タリアは素直で無邪気で笑顔の絶えない明るい子だった。「ネエサマってなあに?」と聞いたラフィーナに、嫌な顔一つせずに「姉さまっていうのはね」と説明してくれた。その笑顔は全く曇ることなく、冷たい顔をすることも一度もなかった。


 タリアが出て行くと、部屋の中は急に静寂に包まれた。広い部屋に2人。ラフィーナはすっかり冷めたお茶を一口飲み、ジジョを見た。



「ジジョ……いえ、お名前があるのよね?」



 クレイトスの言葉を思い出してそう言うと、ジジョは微かに驚きを見せ、だけど嬉しそうに笑った。



「はい。イリスと申します。ラフィーナ様のお好きなようにお呼びください。もちろんジジョでも問題ありません」


「イリス……」



 今日だけでいくつの名前を聞いただろう。今までラフィーナの人生になかったそれは不思議な響きがある。



「イリス」


「はい」


「イリス、イリス」



 朗らかな声で嬉しそうに何度もイリスの名を呼ぶラフィーナ。イリスはその度にはい、と応える。両手で数えられる回数を超えた頃、ラフィーナはようやく口を閉じてイリスを見た。



「不思議ね、お名前って呼んでも呼ばれてもここがぽかぽかするの」



 胸の辺りに手を当てる。これまでラフィーナの名前を呼ぶのは数日に一度来る父だけだった。それも喋るのはほとんどラフィーナの方で、父はたまに相槌を打つ程度だった。だからラフィーナの名前はほとんど呼ばれない。


 だけど今日だけで何度名前を呼ばれただろう。それは決して多い数ではなかったが、ラフィーナにとっては多いと言うには十分な回数だった。



「帰ったらお父様にもイリスのお名前を教えてあげなくちゃ」



 微笑んだラフィーナを見て、イリスは口を開いた。しかしそれは言葉を発せずに閉まる。ラフィーナは気にせず、遠くの父に思いを馳せる。


 これまで守ってくれていた父。微笑む顔。「愛しているよ」と抱き締めてくれる温もり。イリスを侍女と呼ぶ父は名前を知らないのだろう。教えてあげたら喜ぶかもしれない。だって名前とはこんなにも温かいのだから。



「お父様に会いたいわ」



 離宮を出て10日。今までだったらどんなに長く空いてもそのくらいだった。10日に一度は絶対に会いに来てくれていた。お父様は何をしているかしら。寂しくないかしら。


 父のことを考えていると寂しさが募る。ここにはたくさんの人がいる。新しい言葉を覚えて、名前を知った。それは世界が少し色付いたようで嬉しかった。だけどこうしていると心は遠くへ行ってしまう。


 ここは落ち着かない。あの離宮に戻りたい。「センソウニマケル」というのは良くないこと。だからなのかしら、と思う。思って首を振った。



「お父様は迎えに来てくれるって言ったもの」



 小さく呟く。イリスは眉を下げ、口元に微かな笑みを浮かべた。



「ラフィーナ様、お疲れでしょう? 少しお休みください」



 勧められてベッドへと入るが、目を瞑ると扉の外の音が気になった。足音、物音、話し声。イリスと自分以外の人の音。ラフィーナの世界にはなかったもの。ここは音であふれているというのに、葉の擦れる音も鳥の鳴き声も風の音もない。



「……ジジョ、わたくし、帰りたいわ」



 ここには春の香りがないの。


 ポツリとこぼれた言葉にイリスは何も答えなかった。ラフィーナは布団を口元まで引っ張り、丸くなって目を閉じた。




 タリアは翌日も部屋に来た。



「おはよう、いい朝だね」



 そう言いながら部屋に入ってきたタリアにラフィーナは顔を綻ばせた。



「姉さま、ちゃんと寝れた? 何か欲しいものない? あるなら用意するよ?」



 タリアが来ただけで部屋の中が明るい。父に会えないことを考えて沈んでいた気持ちが浮き上がる。


 イリスと2人、静かだった部屋の中。ラフィーナはちょうど退屈していたところだった。掃除をしようとしたらイリスに止められ、洗濯物はどこかへ持って行かれ、何をしたらいいのか分からなかったから。



「タリア様は優しいのね。退屈だったの。来てくれて嬉しいわ」


「あたしも暇だったの。姉さまと一緒に遊ぼうと思ってね」



 タリアの動きに合わせて髪が揺れる。ラフィーナはふとそれに違和感を覚えた。何がおかしいのか分からない。だけど何かおかしい。



「タリア様、髪を触ってもよろしいかしら?」



 そう聞いたラフィーナの視界の端でイリスが首を横に振る。駄目なのだろうか。しかしタリアは全く気にした様子もなく「いいよ」と頷いた。


 ラフィーナは手を伸ばし、そっとタリアの髪に触れ……る直前、伸ばした手がふっと軽くなった。その変な感覚に驚いて勢いよく手を引く。不思議に思って自分の手を見たが、いつもと同じ自分の手があるだけで変な感覚ももうない。


 首を傾げた時、タリアがくすくすと笑った。その姿はもう違和感どころではなかった。髪先がふわふわと宙を漂っている。風もないのにスカートが揺れている。明らかにおかしい光景にラフィーナは目を丸くした。



「あたしの魔法、重力を操れるの」


「マホウ……? ジュウリョク?」



 聞き慣れない言葉にラフィーナが首を傾げた時、体が急に軽くなった。



「え……?」



 何が起こったのかよく分からない内に足が床から離れる。体が宙に浮いていた。大きく見開かれたラフィーナの目に、同じように宙に浮くイリスの姿が見える。その表情は驚きを映しているが、笑みも浮かんでいた。



「ネストル兄さまは重くする方が得意だけど、あたしは軽くする方が好きなんだよね。楽しいし」



 ふわふわと漂い、思うように動けない中、タリアは慣れた様子で宙を泳ぎ、ラフィーナの手を取った。



「簡単にいうと重力って下に引っ張られる力のことでね、あたしはそれを操る魔法を使えるの」



 タリアはラフィーナの手を握ったままふわふわと宙を飛び回る。いつもは床の硬さをを感じる足が何も掴んでいない。不思議な心地。だけど自然と頬が緩んだ。



「マホウってなぁに?」


「魔法はね……んーっと、なんて言ったらいいんだろ……姉さまの侍女が喋れるようになったのも魔法なんだけど……」



 タリアは少し考える素振りを見せ、「あ」と扉の方を見た。



「説明するのにちょうどいい人が来たみたい」



 その言葉と同時に浮いていた体が床に近付く。タリアの手に導かれるように床に足をつけた。体に重みが戻る。少し残念に思ったその時、ノックの音が響いた。

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