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10.教育係

「他国の王女を巻き込んで遊ぶな、タリア」



 入って来たのはネストルだった。冷たい声を聞いて身が竦む。俯くと自分の足が見えた。ネストルが来ただけで他には何も変わっていないのに、床がさっきよりも冷たく感じる。



「そんな言い方やめてよ。姉さまはうちの皇女だよ」



 強い口調だった。顔を上げる。タリアが目を吊り上げてネストルを見ていた。しかしネストルは全く気にした様子を見せない。



「茶はいらん。話が終わったらすぐに出て行く」



 淡々とした言葉にイリスが茶器へ伸ばしていた手を引っ込めた。ラフィーナは胸を撫で下ろした。早く行って欲しい。ネストルの顔を見たり声を聞いたりするだけで胸が締め付けられるようになり、体が動かなくなる。自分が自分でないような感覚になる。


 ネストルの動きに合わせてコツ、コツ、と靴の音が響く。ラフィーナがその足先を目で追う。顔を見ることはできなかった。



「兄さま、今姉さまに魔法のことを説明しようとしてたの。兄さまの方が得意でしょ? 教えてあげて」



 タリアの声に「必要ない」と短い言葉が答えた。その鋭さに胸の内がズンと重くなる。足の先が冷たい。息が少し苦しい。


 嫌。喉まで出かかった言葉をこくりと飲み込んだ。



「王女殿下には明日から教育を受けてもらう。常識、作法、帝国語を身につけろ。最低限でいいが、自分の気持ちくらい言い表せるようにしろ」



 キョウイク。なんだろう、と思う。恐る恐る顔を上げると冷たい目がこちらを見ていた。慌ててネストルの胸の辺りに視線を下げる。その胸が微かに上下して、ため息をついたのだ、となんとなく分かった。



「私は明日からしばらく留守にする。教育係にクレイトスを置いておく。そこの侍女も共に帝国語を習え。タリア、お前は王国語をもっと学べ」



 テイコクゴ……帝国語。それがネストル達の喋る知らない言語。王国語もよく知らない自分が他の言語を喋れるようになるのだろうか。少し顔を上げて、ネストルを見た。



「あたしも?」



 タリアが不満そうに口を尖らせるが、ネストルは無視してラフィーナを見た。射抜くような鋭い視線。今度は逸らせなかった。



「ドラウゼン王国はレガルディア帝国に負けた。お前はもう帝国の人間だ。甘えは許さん。敗戦国の王女など殺されないだけで幸運だと思え」



 決して早口ではない。だけど口を挟む隙はなかった。すうっと体の奥が冷えていく感じがした。足先だけじゃない。体の全部が冷たい。ネストルの言葉の温度が移ったよう。


 ネストルは踵を返した。その背中にタリアが声を掛ける。ラフィーナの知らない言語、帝国語で。ため息混じりのタリアの言葉。ネストルは振り返ると、微かに眉を寄せて温度のない声で答えた。



「知らん。俺に聞くな」



 タリアは口を尖らせてまた何事か言う。



「それを決めるのは兄上だ。俺やお前の考えることではない」



 何度かの帝国語と王国語の往来。最後にネストルは「1年だ」と言うと部屋を出て行った。コツコツと遠ざかる足音までもが冷たい響きを放っているような気がする。



「ごめんね、兄さまってほんと言葉を選ばない人で……」



 タリアが苦笑してラフィーナを見た。ラフィーナは首を振る。



「いいえ、大丈夫よ。よく分からなかったから」



 同じ言語を喋っていてもネストルの言葉は難しすぎる。ラフィーナには理解ができない。でも理解できなくてよかった、とも少し思う。あの声を聞くだけでもこんなに冷たいのだから。



「先ほどの言葉は理解できなくて結構です。あれはあの方の本心ではありませんので」



 開いたままの扉の影から出てきた穏やかな声。クレイトスだった。部屋の外で全部聞いていたのだろうか。



「素直になれない方なんです」



 クレイトスは部屋の中へ入ると扉を閉め、苦々しい笑みを浮かべた。



「よく分からないわ」



 首を傾げる。何も分からない。ネストルの言葉もクレイトスの言葉も理解できない。



「本当はお優しい方なんですよ。いつか王女殿下にもそれが分かる日が来ると私は嬉しいです」


「優しい? あの方が……?」



 優しいとはクレイトスやタリアやイリス、それから父のような人のことだ。あんなにも冷たい顔のネストルが優しいなど、とてもではないが信じられない。



「王女殿下もネストル様のことを知ればきっと分かりますよ」



 ラフィーナは首を振った。あの人のことを知りたいなんて思わない。



「王女殿下じゃなくてラフィーナと呼んで、クレイトス。わたくしはあの方よりもあなたのことを知りたいわ」



 そう言うとクレイトスは眉を下げて微笑んだ。ラフィーナは椅子に座る。タリアも隣に座り、「2人も座れば」とクレイトスとイリスにも椅子を勧める。クレイトスは座ったが、イリスはお茶を3つテーブルに置いただけで座らなかった。お茶で口を湿らせ、ラフィーナは口を開く。



「あなたのことを聞かせて」



 そう微笑えむと、クレイトスも微笑みを浮かべた。



「名前はご存知ですね。年齢は28歳です。魔法を使うことはできません。ネストル様のお世話が仕事です」



 敢えてラフィーナに分かるような言葉を使ってくれたのだろう。まだマホウは分からないが他のことはちゃんと理解することができた。



「わたくしにとってのイリスみたいなものね?」


「それだけじゃなくて護衛もだよ。クレイトスは魔法が使えないのに強いんだから」



 タリアがそう言ったが、ラフィーナには「ゴエイ」も「ツヨイ」もよく分からない。聞こうとしたが思考が別のところへ行った。そういえば自分はイリスの年齢も知らない。



「イリスは? 何歳なの? マホウ使えるの?」



 立ったままのイリスへ視線を向ける。椅子はもう一つあるんだから座ればいいのに、と思う。だけど思い返せばイリスは離宮にいる時もいつも立っていた。



「私は25歳です。魔法は使えません。魔力がありませんので」


「25って言ったらエリオス兄さまと同じだね。貴族なんでしょ? 貴族で魔法使えない人って結構珍しいのにここに2人もいるなんてね」



 タリアの言葉にラフィーナは首を傾げた。マホウが何かは分からないけど多分自分にも使えないはずだ。だって重力を操るなんてできない。



「わたくしも使えないから3人よ」


「何言ってるの? 姉さまは使えるでしょ?」



 きょとんとした顔。ラフィーナもきょとんとしてタリアを見る。同じような顔を見合わせていると、クレイトスが横から言った。



「ラフィーナ様のお力はまだ眠っているのです。そのことはまた後日エリオス様からご説明があると思います」



 よく分からない。自分があんなすごいことをできるなんて想像もできない。だけどあんなすごいことができたらきっと父も喜んでくれる。そう思うとラフィーナは自然と笑顔になった。

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