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11.結婚相手

 窓の外に見えていた花が散り、熱を帯びた空気が眼下の街をゆらゆらと揺らすようになった。その頃にはラフィーナは新たな箱庭の生活に慣れていた。


 イリス以外の侍女が部屋に出入りすることにも、扉の向こうから聞こえる誰かの音にも恐怖することはなくなった。感情を表す言葉は一通り知り、文字を覚えた。本を知った。今では難しい本でなければ読める。


 その生活は穏やかで、ラフィーナは離宮にいた時とはまた違う心地よさを感じていた。



 クレイトスに教わりながらペンを動かす。お世辞にも上手と言えない字が並ぶ紙を見てため息が落ちた。帝国文字どころか王国文字すらも上手に書けない。


 隣を見ると整った帝国文字が並んでいる。ラフィーナの視線に気が付いたイリスが笑みを浮かべた。またため息がでた。一緒に学び始めたのに。


 テーブルの上ではタリアが持って来てくれた果実水がその水面を揺らしている。ラフィーナはグラスの周りについた水滴を指でつついた。いくつかの水滴がまとまってグラスを伝い落ちる。



「お上手です、ラフィーナ様。飲み込みが早くて驚かされます」



 クレイトスの言葉にラフィーナは顔を上げた。クレイトスは優しい。濡れた指先をスカートで拭いて、笑みを作った。



「そう気を遣わなくていいのよ。下手なのはわたくしにも分かるもの」



 最近では日常会話で理解できないことは減ってきた。前までだったら半分も理解できないことなど珍しくなかったが。一応自分も成長はしているのだ。



「本心ですよ」



 クレイトスはふふ、と笑った。



「本日はもう終わりましょう。エリオス様が来られるそうですので」


「兄さまが!?」



 それまでつまらなさそうに頬杖をつき、ペンを指先で弄んでいたタリアがパッと顔を輝かせた。いそいそと片付け始める嬉しそうな表情。ラフィーナは意識せず頬が緩んだ。



「タリア様はエリオス様がお好きなのね」


「うん、エリオス兄さまは温かくて好き。ネストル兄さまは優しくて好き」



 エリオスは数日に一度、ラフィーナの元を訪れる。大抵お茶も飲まずに帰って行くほどの短時間だが、その短時間でもラフィーナはタリアの言う「温かさ」を感じる。


 しかしネストルの優しさは分からない。ネストルはあれから一度もラフィーナの元へ来ない。あの時言っていた通り、城にもいないのだろう。ラフィーナはそれに安堵している。


 ネストルを前にして胸が苦しくなるのも、体が動かなくなるのも、手が震えるのも、全部恐怖。今なら分かる。


 ネストル様も妹のタリア様だからきっと優しいのだわ、と思う。



「それにあたし、姉さま達も大好き」



 あふれんばかりの笑顔でそう言ったタリアに、ラフィーナは首を傾げた。達、と言うのは誰のことを言っているのだろう。口を開こうとした瞬間、扉の向こうからゆったりとした足音が聞こえた。



「いらしたわ」



 小さく呟くとタリアとクレイトスが扉を見た。近付く足音。ここへ来て数日の頃、ラフィーナは自分が人よりも感覚が鋭いことを知った。静かな離宮で育った為だろう、とクレイトスは言っていた。


 こうして人の訪れをいち早く知ることができるのは便利だ。テーブルの上に広げていた紙を重ね、隠すように裏返した。


 コンコン、とノックの音。クレイトスが答える声に次いで扉が開く。その向こうにはいつもと同じ穏やかな笑みを浮かべるエリオスと、長い髪をきっちりと束ね、白い騎士の服に身を包む女の姿があった。


 いつもの2人は笑みを浮かべ、部屋の中へと入って来る。



「ラフィーナ、タリア、イリス。勉強の進み具合はどうだい?」


「順調だよ。スパルタな誰かさんのおかげで。主従は似るって言うけどほんとその通りだよね」



 タリアが唇の端を上げてそう答えた。その表情は何故かネストルを思い出させた。血が繋がっていれば少なからず似るものだとクレイトスが言っていたことを思い出す。似ているのかしら、と考えながらタリアを見てもよく分からない。



「お褒めに預かり光栄です」



 クレイトスはタリアへ笑みを向けた。今のは褒めていたのだろうか。それにしては少し嫌な感じがあったと思うのだけど。首を傾げると、「今のようなものを皮肉と言います」とクレイトスが言った。よく分からない。


 そんなやり取りを見ていたエリオスはくすくすと笑いながら空いていた椅子へ腰掛けた。いつもだったら椅子を勧めても断るエリオスが。珍しい。



「ラフィーナ、そろそろ君のこれからの話をしよう」



 これからの話。ラフィーナはここへ来てから何も聞いていない。ここへ連れて来られた理由も未だによく分かっていない。離宮を出る時にセンソウがどうとか言われたことは覚えているけれど。


 イリスが置いたグラスに口をつけ、エリオスは言った。



「君にはネストルと結婚してもらうことになる。実はもう婚約は終わっているんだ」


「ネストル様とケッコン……? コンヤク?」



 ケッコンとは、コンヤクとはなんだろう。でもネストルの名前を聞いただけで胸が重くなる。


 首を傾げてエリオスを見ると、エリオスは面倒臭そうな素振りを全く見せず穏やかに笑んだ。



「ああ、分からないかい? 婚約とは結婚しましょう、と約束することで、結婚とは、ずっと一緒にいることだよ」



 思わず眉間に皺が寄った。約束なんてしていない。そして何より、



「ずっと一緒……あの方と……?」



 呟くラフィーナを見て、エリオスは苦笑した。その表情で自分が失礼なことを言ったのだと理解した。



「……申し訳ありません」


「いいや、気にしないでいい。君の気持ちは分かる。ネストルは素直じゃないからね。だけど優しい子なんだよ」



 ネストルは優しい。タリアもクレイトスもエリオスまでもがそう言う。しかしラフィーナには分からない。皆誰かの魔法にでもかかっているのかしら、と思う。



「君は16歳、ネストルは20歳。歳の頃もちょうどいい」



 ラフィーナは何も言わずに笑みだけをエリオスに向けた。少し待っていたら父が迎えに来てくれる。だからあの人とずっと一緒にいることはない。そう思うと重くなった心はまた軽さを取り戻した。

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