花の影ーーネストル
3人の中で俺だけが異質だった。優しくて穏やかな兄。明るくて無邪気な妹。対して短気で気性の荒い自分。本当に同じ親から生まれたのかと何度も疑った。
怒りによって暴れた魔力も母の命が尽きるまで抑えられなかった。兄上のようになればいいのか。穏やかで誰にでも微笑みを向ける兄上のように……そう思っても俺は俺のままであった。
周りから恐れられ、疎まれ、憎まれ、それでもなお鏡の中の俺は冷たい目をしている。何度この拳を叩きつけたことか。ひそひそと囁く声も怯えた目も腹が立つ。だが兄上とタリアから母を奪った自分自身が何よりも憎い。
嫌いだ。見たものを怯えさせる鋭い目も、兄上のように笑えぬ口も、タリアのように素直になれぬ心も、レガルディア皇族の象徴のようなこの色も、全て、嫌いだ。
兄上とタリアは眩しい。なのに自分はその光に照らされてもなお輝けない。氷月だなど言い出したのは誰だ。月など烏滸がましい。俺は月にすらなれない影の存在だ。
感情がない。光に紛れ込んだ闇。母殺し。ここにいるべきでない。戦場で死ねばよかった。
貴族達の囁く言葉は的を射ている。思わず笑みが漏れた。
分かっている、そんなこと。自分が異質なこともこの身が変われぬことも。
どれだけ疎まれようが恐れられようが、俺が城にいることができたのはこの外見のおかげだった。3人の内で誰よりも父に似た色を持ち、父に似た容姿を持っていたから。だから俺は城に留まり、兄上とタリアに償うことができる。
顔も知らぬ女との婚約を承諾したのも国のーー兄上の為。誰と婚約しようが誰と婚姻しようが名だけの関係。世間知らずの女など俺のことを怖がるだろうし、俺も関わるつもりもない。俺の世界が変わることもない。これからも兄上とタリアの為だけに。
だからあいつが自分と同じ色を持っていてもどうでもよかった。父のせいで減った皇族。1人でも増えれば帝国の利になる。この色ならば問題なく受け入れられるだろう。そう思っただけ。
「足が汚れますよ」
そう言ったクレイトスに対してあいつは子供のような顔で首を傾げた。
「砂でしょう? 汚くないわ」
瞬間、自分の唇の端が上がったのが分かった。そうか、こいつは異質を異質と見做さないのか。そこにあるべきものでないものすらもを受け入れるのか。
だが頭はすぐに冷えた。だからなんだ。そんなこと俺には関係ない。今俺は何を見た。救いとでもいうのか? 希望だとでもいうのか? こいつの存在が? ふざけるな。俺にはそんなものあってはならぬ。腹が立った。
帝都への道すがら、顔を見るのみで言葉も交わさなかった。だがクレイトスはあいつの話ばかりをしていた。聞けば聞くほど、見れば見るほど信じられなかった。これほど美しいものがこの世界に存在しているなど。帝都に着く頃にはもはや否定などできないほどには魅せられていた。
だがそれを肯定することはこれまでのあいつの人生を肯定することと同義。あの無垢な美しい心は、父親による制限の上で確立されたものだ。あいつを見ると苛々した。父や兄の言葉を自分のものとして語るあいつに。自らの意思などないかのように言葉を発するあいつに。それを美しいと思う自分に苛立った。
鳥が唄うように話し、蝶が舞うように歩き、花が咲くように笑い、春を祝う。この世の美しさの全てを集めるとあいつになるのだろうかと思った。その無垢な心を守りたかった。あの美しい心に殺されるならそれもいいと思った。
兄上とタリアへの償いに使うと決めていたこの一生。気が付けば全てをあいつに捧げていた。もはや俺は戻れぬ。あの美しい心に囚われ、狂っている。
ーーそして、ここにもあいつの美しさに狂わされた人間が一人。
「ラフィーナ……俺のラフィーナ……お前のせいだ」
王国兵も帝国兵も入り乱れる中、虚な目が俺を見る。ドラウゼンの王子。あいつの兄。あいつがその手で毒を盛った相手。
「お前がいるからラフィーナは戻れない! お前がラフィーナを狂わせた! 愛する俺のラフィーナを……! 返せ!」
目をむいて叫んだ奴は明らかに正気を失っていた。右手の剣を握る手に力が入り、思わず笑ってしまった。この俺が気押されるとは。俺はまだ奴ほどは狂ってはいないということか。
ここまでいくつの人間を切り捨てたろうか。血に濡れた剣は刃こぼれしていてもく長くは使えない。魔力も多くは残っていない。
……こいつくらいは殺せるか。
奴はすぐに切り掛かってきた。その剣を受け止め、弾く。体格が違いすぎる。だが相手の剣を軽くするくらいの魔力はある。難なく俺の剣は奴の心臓を仕留める。瞬きもせぬ内に剣先が届く。
瞬間、あいつの顔がよぎった。あいつはこれを望むか。愛する兄の死を望むのか。
躊躇いが剣を鈍らせた。隙を生んだ。奴の唇が吊り上がり、しまった、と思った時には遅かった。腹に熱を感じる。刺されたことを理解したのは自身の腹から抜かれる剣を見た時だった。
『ネストル様……!』
義姉上の声が遠くに聞こえる。
どこだ? どの臓器をやられた?
やけに冷静な頭で考える。痛みはない。ただ体から熱が消えていく。
「死ね。ラフィーナを奪う人間は皆殺してやる」
ふざけるな。奪ったのはお前の方だ。あいつから自由も意思も言葉も、全てを奪ったのはお前達だ。ふざけるな……!
奴を睨み付けたが体は動かない。立っているのがやっとで。手から剣が滑り落ちる。
『ネストル様!』
義姉上の声。奴の腹から剣が生えた。ああ、義姉上にやらせてしまった。俺が躊躇したから。あいつの顔が浮かんだから……。
むせ返るほどの血の匂い。失っていく体温。足から、体から力が抜け膝をついた。腹から血が溢れ、砂に溶け、混ざり合う。砂も泥も汚くないと笑ったあいつはこれも受け入れるのだろうか。俺すらも受け入れてくれるのだろうか。
『ネストル様!』
『副団長殿……!』
俺を呼ぶいくつもの声が遠くに聞こえる。頭に靄がかかり、時がゆっくりになったよう。不意に視界の端に何かが見えた。風に靡く銀色。俺と同じ色の緩やかな長い髪。
ーー死なないで。
光があった。あいつが立っていた。あの澄んだ瞳で俺を見ていた。汚れを全て流すような美しい涙を流して。あいつはこんな戦場でも清らかだ。
「し、なぬ……」
お前がそう言うのなら。俺はお前の望みを叶える。お前の意思を叶える。だからこんなところで死ねぬ。
何故だ。穢らわしいと思っていたこの銀色が、何故あいつの元ではあんなにも美しい。
目が霞む。一度瞬きをすればあいつの姿はかき消えた。そこに残るのは死体と剣と慌ただしく動く騎士のみ。
飽いた。肉を貫く感触も、鼻をつく血の匂いも、鉄の味がする砂の風も、絶えぬ剣戟音も、命の消えた器も。あいつの待つ場所へ帰りたい。……帰らねばならぬ。
体が傾ぐ。気が付いた時には頬に砂の感触がした。死なぬ。死ねぬ。俺は、お前の為に……
「ラ、フィ……」
最後に見えたのは血に塗れた大地を飛び立つ鳥の姿だった。




