86.誓い
騎士団の広い訓練場には馬に乗った騎士たちが整列していた。タリアと共に足を止めて肩で息をする。こんなにも走ったのは初めてで、今にも倒れてしまいそうだった。しかし今倒れるわけにはいかない。俯いて深く呼吸をした。
「あ! いた!」
タリアの声に顔を上げると、その指の先には今にも馬に乗ろうとしているネストルの姿があった。
「兄さま!」
タリアが大きな声で呼ぶ。訓練場には響き渡った声は、ネストルだけでなく全ての視線をこちらへと集めた。
「タリア様……」
クレイトスが呆れたような声で小さくタリアの名前を呼ぶのが聞こえ、タリアも「やば」と小さく口を押さえる。
ラフィーナは迷わずネストルの元へと走った。馬に乗ろうとしていたネストルはため息をつきながらもラフィーナの方へ足を向ける。
『副団長殿の……』
『婚約者殿だよな』
『見送りか?』
『あの副団長殿を?』
ざわざわと聞こえる声。ネストルはまたため息をついた。
「言うなと言ったのに……タリアか」
そう言うネストルはいつもと全く同じ表情だ。冷たく静かで、感情が見えない。
「時間がない。手短に済ませろ」
ネストルらしい短く素っ気ない言葉。「こんな時まで!」とタリアの怒る声が聞こえた。騎士の服に身を包んだネストル。動く度に腰に下げた剣がガチャリと音を立てる。
ラフィーナは視線を彷徨わせた。こんな時は何を言えばいいのだろう。自分は何を言いに来たのだろう。分からない。口を開いたが言葉が出てこない。
ざわめきの中で沈黙が降りた。
「……用がないなら俺は行く」
静かな声がそう告げ、ラフィーナは反射的にネストルの服を掴んだ。
「行かないで……!」
口から出たのはそんな言葉だった。ネストルの目がラフィーナを見つめる。唇が震え、涙が目からあふれた。
「わたくしはネストル様と一緒にいたいの。嫌よ! 戦争になんて行かないで!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。涙があふれて止まらない。
「わたくしが望むなら全てを捨てると言ったじゃない……」
涙でネストルがかすむ。ラフィーナは唇を噛んでネストルを見つめた。ネストルはゆっくりと自らの服を掴むラフィーナの手を解かせる。熱い手だった。
「それがお前の望みならそうしてやる」
ネストルは静かな声で言った。騎士の間にどよめきが走る。
「騎士も兵も民も、全てを見殺しにして自らの幸福のみを追うことを、お前は俺に望むのか?」
お前が言っているのはそういうことだ、とネストルは淡々と言った。違う、そう言いたい訳じゃない。そんなこと望まない。ラフィーナが望むのはただ一つ。ネストルが何事もなく自分の側にいること。それだけ。
ラフィーナはゆるゆると首を振った。言葉は何も出ず、目から涙だけがこぼれる。
「王国の狙いはお前だ。俺は戦争に行くのではない。お前を守りに行くのだ。止めるな」
「……戦争は怖いのでしょう? たくさんの命が消えるのでしょう……?」
ネストルが無事に帰って来る保証などない。だからこんなにも苦しい。ネストルを失うことが怖い。
ネストルの指がラフィーナの頬の涙を拭う。その熱にネストルの存在を感じる。
「俺は死なぬ。お前が死ぬなと言うのなら」
涙が止まらない。
「……死なないで」
絞り出した声は今にも消えてしまいそうで、ネストルに届いたのかも分からない。だがネストルはもう一度「死なぬ」とはっきり言った。
ネストルの手が頬から髪へと伸びる。太陽に煌めく一房の銀色。そこに口づけが落とされた。伏せた目がゆっくりとラフィーナを見る。
「誓おう。俺はお前の心を守る。ラフィーナ、お前の心がお前だけのものであるように」
声も言葉も出せず、ただ涙だけがあふれる。ネストルの手からさらりと髪が落ち、そして離れた。
ネストルは踵を返し、軽やかに馬へと乗り、手綱を引いた。
『待たせたな。行くぞ!』
おおおおお! と騎士の声が上がり、馬が動き出す。ネストルは馬上からもう一度ラフィーナへと視線を向け、そして前を向いた。
太陽に輝くラフィーナと同じ色が遠ざかる。ラフィーナはただそれを見ることしかできない。涙で霞んだ視界。不意にどこかから一頭の馬が駆け抜けた。
「ネストル! ルイーズはどこだ!」
エリオスだった。驚きで涙が止まる。
「……! 先に行っています!」
遠くでネストルの声が答えるのが聞こえた。馬が駆けていく。ものすごいスピードで遠ざかる背は必死で、なりふり構わず、ラフィーナの知るエリオスではなかった。
「あーあ、明日には帝都中に噂が広がるよ」
後ろからそんな声が近付いて来た。振り返るとタリアが立っていて、どこか嬉しそうに見える。タリアの言葉で意識して周りを見てみると、いつからいたのだろう。他の貴族の姿もある。ラフィーナが気が付かなかっただけで最初からいたのかもしれない。
「あっつい男達だねぇ。妹として誇らしいよ」
「タリア様が焚き付けたのでしょう」
クレイトスが苦笑する。
「あたしが言わなかったらクレイトスが言ってたでしょ」
「そうかもしれません」
クレイトスの後ろにイリスとシルヴァンもこちらへ来るのが見えた。
「うむ、いいものを見せてもらったな」
「どうして父様もいらっしゃるのです?」
イリスの呆れたような、困惑したような声に「はっはっは」と豪快な笑い声が答えた。
「自然を愛し、自然と共に、自然のままに生きるのが我がフェルナード家だ。つまり人間の営みを傍観することが我が家の役目だ」
「つまりお二人の関係を間近で見たかったということですね」
「今まで見守ってきた恋路がどうなるかの瀬戸際だ。見ないわけにはいくまい」
そんなやり取りで悲しみに沈んでいた心が少しだけ浮上した。父娘とは本来このような感じなのだろうか。
「傍観だけがフェルナード家の役目だとしたら、私はフェルナード失格かもしれません」
イリスが微笑みを浮かべる。
「親子だな。俺もそれができなかったからここにいるのだ」
シルヴァンは大きな声でまた笑った。
涙は止まった。悲しみも少し紛れた。もう一度遠ざかる騎士達へ視線を向ける。銀色の髪はもう見えなかった。




