84.イリスの父
鳥が窓から飛び込んで来た。ラフィーナは噛み締めていたパンを飲み込み、鳥の動きを目で追う。鳥は一直線にイリスの元へ飛び、広げた翼でイリスの顔が隠れた。イリスが手を差し出すとそこに止まった。
「朝食中にすみません」
「いいのよ。その子にも何か食べ物をもらって来ようかしら」
持っていたパンを置いて立ち上がると、イリスが「先にお食べください」と苦笑した。
もう一度座り直してパンを千切って口に運ぶ。イリスは鳥へ手を伸ばし、どこからか紙を取った。驚いて噛んでいた歯が止まる。
「どこにあったの? それも魔法?」
飲み込んで聞くとイリスは「足に結んでありました」と笑った。鳥がイリスの手から飛んでテーブルの上に止まった。キラリと輝く丸い目がラフィーナの手にあるパンを見ているような気がした。
少し考えて左右に動かしてみる。鳥の首はラフィーナの手に合わせて左右に動いた。
「ふふ、パンが欲しいの? 少しだけよ」
笑いながら差し出したパンを鳥はすぐに嘴で取った。パンは鳥の体には良くないとイリスが言っていたから少しだけ。
「お腹が空いているのね。やっぱり何かもらって来てあげるわ」
立ち上がった時だった。イリスが息を呑んだ。その目は紙の上を滑っている。何が書いてあるのだろうか。読むほど顔が青ざめていく。首を傾げていると、イリスはすぐに顔を上げてラフィーナを見た。
「申し訳ありません、ラフィーナ様。少々外してもよろしいでしょうか」
早口でそう言ったイリス。こんなにも焦るのは珍しい。
「ええ、もちろんいいわよ。何かあったの?」
「父が……」
「え?」
「父が来ます」
イリスは青白い顔でそう言うと慌ただしく部屋を出て行った。
「ご無沙汰しております、エリオス皇帝陛下」
「お久しぶりです、フェルナード当主」
馬車を降りてきたイリスの父という男は大きかった。ラフィーナはポカンと口を開けて、目の前でエリオスと握手を交わす男を見上げる。エリオスもクレイトスも他よりも身長が高いはずなのに並んでも頭ひとつは違う。じっと顔を見ていると首が痛くなって顔を下げた。
「イリス、あなたのお父様はすごく大きいのね……」
小さな声で隣のイリスに囁くと、イリスはこくりと頷いた。
「話していると首が痛くなります」
「そうよね」
もう既に首の痛みを経験した身として、その言葉には深く頷いた。
「水臭いな、名前で呼んでくださいよ、エリオス様」
「シルヴァン様が余所余所しく呼ばれましたから」
そう言って笑い合うエリオスとシルヴァンは随分と仲が良さそうに見える。
「皇后陛下もお元気そうですね」
シルヴァンは騎士の姿でエリオスの後ろに立つルイーズとも握手を交わす。
「おっきー……」
呆然とした声が聞こえてそちらを見ると、口を開けてシルヴァンを見上げるタリアがいた。自分も同じような顔をしていたのだろうと思うと少し可笑しくなる。
「あんなにおっきいと馬車も狭いだろうね。ね、ネストル兄様」
馬車とシルヴァンを見比べるように目を動かしたタリアは隣のネストルへ同意を求めた。ネストルは聞いているのかいないのか、不機嫌そうに舌打ちをするだけ。その後ろでクレイトスが苦笑しながら「そうですね」とタリアに同意した。
剣の訓練中だったのだろうか。ネストルは騎士の服を着ている。いつもと違う服に思わず頬が緩んだ。
「イリス、よくやった」
シルヴァンはイリスと向かい合う。イリスは上を見てシルヴァンと目を合わす。そして、思い出したように口を開いた。
「もう喋ることができるのでした」
イリスははにかむ。かと思えばキッと目を吊り上げた。
「来られるなら早くご連絡ください、父様。このように突然ですと皆様が困ります!」
「はっはっは! すまんすまん」
シルヴァンは大きく口を開けて笑った。豪快なその様にラフィーナは目を丸くした。
「お前が喋れないのも自然なことだと受け入れていたが……こうして言葉で怒られるのも存外悪くないな」
シルヴァンは目を細めてイリスの頭にポンと大きな手を置いた。イリスは少し頬を赤くして「怒らせないでください」と口を尖らせる。それが照れ隠しだとすぐに分かり、自分の知らないイリスの一面に、ラフィーナは笑みを浮かべた。
「ラフィーナ様」
シルヴァンは次にラフィーナへと体を向けた。目の前に立つその顔を見上げようとすると、先にシルヴァンが片膝をついた。
「鳥の語るあなたは美しく、お会いできる日を楽しみにしておりました。聞いていた以上にお美しい」
笑みを浮かべるシルヴァン。膝をついていると言うのに大きく見える。下からの視線にラフィーナは笑みで応えた。こんな時なんと言えばいいのか分からない。シルヴァンは笑みを深めて立ち上がり、今度はネストルとタリアの前に立った。身長差がありすぎてネストルとタリアがまるで子供のように見える。
「シルヴァン・フェルナードです。お二人とは初めてですね」
「タリアです。よろしく」
タリアがにっこりと笑う。対してネストルは仏頂面のまま「ネストルだ」と言っただけ。シルヴァンが2人を見下ろす。「ふむ」と顎に手を当てて頷いた。
「帝国で最も恐れられていると言われる氷月のお方……どんな大男かと思っていたが……」
シルヴァンはそこで言葉を切った。イリスがハッとしたように足を踏み出した。
「父様……!」
「チビだな」
ピシリと空気が凍った。イリスの踏み出した足は止まり、その額に冷や汗が浮く。タリアが「やっちゃったー……」と小さく呟いて隣に立つネストルから距離を取り、エリオスとクレイトス、ルイーズは苦笑する。
ラフィーナは急に温度の下がった空気に、ネストルを見た。首を傾げた時、エリオスがシルヴァンへと歩み寄った。
「どうか言わないでやってください。本人も気にしているので」
苦々しく笑ってそう言ったエリオスに、ネストルは「気にしていません」と吐き捨てるように言った。いつもよりも語気が荒い。そこに怒りが見えた。
「ははは! すまない。噂の氷月の方が思った以上に可愛らしかったもので」
ネストルが顔をしかめる。見たことがないほどに嫌そうな顔。今にも剣を抜くのではないかと思うほどに冷たい目だ。そんなにも身長を気にしているのだろうか。
「わたくしはネストル様が大きくなくてよかったと思うわ。だってシルヴァン様のようだったら首が痛くなってお話もできないもの。それにほら」
ラフィーナは小走りでネストルの隣に並んだ。ネストルは笑みを向ける。皆の視線を感じた。
「お顔が近くて声がよく聞こえるわ」
だから大きくないネストルの声でも、街で会話することができたのだろう。クレイトスの声は屈んでもらわないと聞き取れなかったから。ネストルは小さなため息を落とすと、静かにラフィーナを見つめた。
じっと見られ、ラフィーナは少したじろぐ。何か言いたいのだろうかと首を傾げたが、ネストルは視線を逸らす。
「準備があるのでもう行きます」
「え?」
隣からイリスの驚いたような声が聞こえた。
「いいのかい?」
エリオスが困ったように微笑む。なんの話だろう。ラフィーナには全く理解できなかったが、ネストルはもう一度ラフィーナへ視線を向けると静かに頷いた。
「……いい」
そのまま歩いていく背中。
「兄さま……っ!」
タリアが呼び止める。しかしネストルは足を止めず、小さくなっていく姿は城の中へと消えた。




