83.自覚
木々のざわめきを耳に、ラフィーナはそのまま目を閉じた。少し離れたところにネストルの気配がする。背中に感じる草の柔らかさと温かさに眠気が襲って来た。風が木々を揺らす度に変わる瞼の明るさが少し面白い。室内ではできない体験だ。
「どうすれば魔法が使えるようになるの?」
サク、と草を踏む足が止まる気配がした。
「魔法は持って生まれるもので、基本的に物心がつく時には使えるようになる。だがミルヴェンの魔法は特殊だ」
静かな声が淡々と説明する。目を閉じたまま聞いていると子守唄のようにも聞こえてきた。
「精神の成熟と共に目覚めると聞いているが、明確な基準はない。他者と自己の境界を理解した時、他者に深く共感した時、他者を尊重することを知った時、強い感情の揺れがあった時、恋をした時。歴史を見るとそれは様々だ。だが例外なく15の年までには皆目覚めている」
目を開けた。15歳?
「わたくしはもう17歳よ?」
歴史が間違っているかそもそも自分にはそんな魔法はないのでは。そう思ったがネストルはこともなげに言った。
「例外なのだろう」
目だけでネストルを見る。何を考えているのか、木の幹を見つめる横顔が見えた。冷たい表情に先ほどの涙は錯覚だったのではないかとまで思う。
「お前の魔法は目覚めかけている。感情は溜め込むな。特に負の感情はよくない」
「どういうこと?」
寝転がったまま首を傾げる。葉の間をすり抜けた太陽が目を刺した。
「魔力はお前の一部だ。お前の感情に伴って動く。それはお前の望む結果になるとは限らん」
その言葉でミルヴェンの当主を思い出した。あの時、恐らく自分は魔法を使ったのだろう。精神を操る魔法。自分はあの場で当主に死の命令を下した。魔法を扱いきれない自分はそれを止めることもできず、結果があれ。
吐き気がした。起き上がる。ネストルはラフィーナから目を逸らし、呟いた。
「俺は母を殺した」
立ち上がろうと立てた足が一瞬止まった。知っている。皆が噂をするから。でもそれをネストルの口から聞くとは思わなかった。少し驚きながらも立ち上がる。敷物から足を出すと柔らかな草が足をくすぐった。
「5つの時だった。怒りに魔力が抑えられず、それを止めようとした母が死んだ。俺の魔法が母親の体を押し潰した」
だからなのかしら、と思う。ネストルはいつも冷たい顔をしている。まるで何も感じていないというように。感情などないというように。
「魔法とは恐ろしいものだ」
隣で立ち止まると、ネストルは顔を逸らした。だがラフィーナから離れようとはしなかった。
「お前を俺と同じにはしたくない。制御を失うな」
ネストルはラフィーナを見て手を差し出した。ラフィーナは目の前の手を見て、その意図を考える。少ししておずおずとそこに手を重ねた。
「魔法とは魔力が変化したものだ。お前の意思で動かし、お前の意思で止めろ」
ネストルに触れたところから何かが押し込まれているような、引き出されているような感覚があった。体内で蠢く何か。先ほどネストルが魔力とだと言ったそれだった。思わず眉間に皺がよる。
「今動いているのがお前の魔力だ。覚えておけ。全てはそこから変化する」
覚えておけと言われても忘れられる感覚ではない。離れた手を見る。もうすっかり落ち着いた見えない感覚に、ラフィーナは不思議に思いながらネストルを見た。
「わたくしが魔法を使えるようになれば、ネストル様のお役に立てるの?」
ネストルは眉をひそめた。不快にさせただろうか。
「魔法などいらぬ。お前の価値はそこにはない」
ふいを顔を背けたネストルは広がる敷物を見た。籠が浮き、魔術具が浮き、敷物が浮き……空中で畳まれるそれを見る。すぐに敷物も魔術具も籠の中へと納まった。草の上に静かに着地するそれを眺める。
「お前は何を望む」
横を見るとネストルがこちらを見ていた。ラフィーナは首を傾げる。質問の意図がよく分からない。
「これから先お前はどうしたい。父の元へ帰りたいか。このままここにいたいか。それとも全く知らない地へ行きたいか……」
その瞳が真っ直ぐで、まるで吸い込まれてしまいそうだと思う。
「ここにいたいならいればいい。知らない地へ行きたいなら連れて行ってやる。父の元へ帰りたいなら帰らせるし、そこに俺を望むなら一緒に行ってやる」
何を言われているのだろう。ネストルは何を言っているのだろう。
「お前が望むなら俺は全てを捨てる。兄上も帝国も全てを裏切る。全て、お前の望むままに」
分からないわ、と口から漏れた。分からない。ネストルが何を考えているのか。試されているのだろうか。それとも本心なのだろうか。分からない。
胸が締め付けられる。自分が感じているこれが嬉しさなのか、恐怖なのか、痛みなのか、それすらも分からない。
「どうして、」
小さな声しか出なかった。
「どうして、ネストル様はわたくしの為にそこまでしてくれるの?」
こちらを見つめる瞳を見返す。ネストルは目を逸らさずに答えた。
「お前の美しさを守りたい」
それだけだ、と。分からない。そんなことでエリオスや帝国を裏切るなど。
もう一度、ラフィーナの口から分からないわ、と漏れた。
「わたくしはわたくしの望みが分からない。でも……お父様に会いたいわ。会って、お話しして、それから考えたい」
ネストルと共にいたい。父への疑念はそれを決断させるには充分過ぎるほどで。だけどあの幸福な日々を、美しい箱庭を否定することは、今のラフィーナにはまだできない。
ネストルは頷くと、地面の籠を浮かせて右手に持った。いつのまにか左手には剣が握られている。
もう帰るのかしら、と思うと同時に、ネストルは「クレイトス」と呼んだ。首を傾げる。木々の間からクレイトスが音もなく現れた。
「クレイトス……! 驚いたわ。いつからいたの?」
「たった今です。驚かせてすみません」
クレイトスはそう言って微笑んだ。ネストルは不満そうに顔をしかめる。
「無駄に気配を消すな」
「おや、常に消しているネストル様がそれをおっしゃいますか?」
舌打ち。「帰るぞ」とネストルは木々の間へ足を進めた。
「ゆっくりお話はできたようですね」
クレイトスは微笑む。どうして分かったのだろう。ラフィーナが目を丸くするとクレイトスはふふっと笑った。
「晴れやかなお顔をされておいでです」
お二人とも、と加えられた言葉にラフィーナはネストルが消えた方向を見た。あのネストルの顔を見て何か読み取るとは……ラフィーナにはできない芸当だ。
「……どうしてネストル様はあんなにも優しいのかしら」
ポツリと呟いた。
「多くの痛みを知ってられますから」
クレイトスはそう言って、ただ、と苦笑する。
「短気なのが玉に瑕ですがね」
ああ、と思わず声が出てしまった。それで何かを察したのか、クレイトスが笑みを凍りつかせる。
「あ、違うのよ、いえ……違うわけでもないのだけど……」
怒っているのはネストルだけど怒らせているのは自分だ。自覚はある。だってネストルの言うことはいつも自分の為の言葉だから。
クレイトスは「やっぱり」と天を仰いだ。
「すみません、一緒に残ればよかったかもしれません」
「いいの」
クレイトスがいたらネストルはきっと何も話してくれない。自分たち以外の誰かがいる時はいつもツンツンしているから。
「あんなふうに怒ってくれるのはネストル様だけだから」
ラフィーナの顔が綻ぶ。皆優しい。だけどその優しさ故に自分に気を遣ってくれているのが分かる。いつも本音で話してくれるのはネストルだけ。
「だからわたくしはネストル様が好きなのよ」
自然と言葉が出た。クレイトスが目を丸くする。その顔を見てラフィーナは少し笑った。
「行きましょう。早く行かないとまた怒られちゃうわ」
脱いだままにしていた靴を拾い上げる。口にして実感した。
これが恋だわ。
ラフィーナは裸足のまま、足取り軽くネストルの後を追った。




