81.ピクニック
森の中、少し開けたところで足を止めたネストルは籠を開けた。ラフィーナも横から覗き込む。
「敷物とサンドイッチとりんご……これは何かしら?」
石のようなガラスのような玉。ラフィーナの両手に乗せてちょうどいい大きさのそれは白とも青とも見える色をしている。冷たくて気持ちがいい。ラフィーナが手のひらに乗せたそれに、隣から手が伸びて触れた。
途端、何かが体の中で動いた感覚がした。
「ひゃぁ……っ!」
ネストルが微かな驚きを顔に浮かべてラフィーナを見る。急激に顔が熱くなった。変な声を出してしまった。恥ずかしい。顔を隠すように俯く。
「……それが魔力だ」
ネストルの静かな声が言った。顔を上げると、手も触れていないのに敷物が宙に広がり、静かに地面へと下りるのが見えた。
「魔術具を起動する俺の魔力に誘発されてお前が持つ魔力が動いた。魔法を使う為の基本だ。覚えておけ」
魔力? 今のが?
「へ、変な感じがしたわ」
ネストルもタリアも魔法を使うたびにあの変な感覚を覚えているのだろうか。ネストルはラフィーナの手から玉を取り、それを敷物の中心へ置いた。
「すぐに慣れる」
座れ、と促されて敷物へと上がる。敷物にサンドイッチ。ピンと来た。
「わたくし知っているわ! こういうのをピクニックと言うのよね!」
侍女が言っていた。天気のいい日はピクニックに行ったら気持ちがいい、と。ピクニックとはなあに? と聞くと、敷物やお弁当を持って自然の中でゆっくりすることだと言っていた。いつかしてみようと思っていたがまさかこんな風にすることになるとは。
ネストルが顔をしかめるのが見えたが、ラフィーナは気にせず中心付近に腰掛けた。
「靴を脱いでもいいかしら?」
「好きにしろ」
ため息混じりの声。ネストルもラフィーナの近くへ座り、深いため息をついた。
「……何故俺がこんなことをせねばならぬのだ」
心底嫌そうだ。苛立ちすらも滲む目が憎々しげに木々を見ている。靴も靴下も脱いだラフィーナは上を見た。木々の隙間から覗く太陽が眩しくて目を細める。
「木陰ってこんなにも涼しいのね。不思議だわ」
魔法みたい、と言うと「魔法だ」と返ってきた。
「その魔術具が周囲の気温を下げる。それがなければ俺は今頃ここにはいないだろうな」
はあ、とため息をついたネストルは右手に持っていた剣を横へと置いた。
「魔法ってすごいのね……!」
まさかそんなことまでできるなんて。感嘆したラフィーナは、ふとネストルの目が自分を見ていることに気が付いた。薄い色の深い双眸。まるで心の奥底までを見られているような。
跳ねるようだった心が急激に温度を失っていく。その視線の意味は測れない。
「なあに……?」
「お前は信じたのか」
「え?」
信じたのか? なんの話?
「あいつの……父上の話を信じるのか?」
どういう意味だろう。信じてはいけないのだろうか。嘘だったのだろうか。だったらどんなにいいか……。
「嘘なの?」
いや、とネストルはラフィーナから目を逸らした。
「嘘ではない。だがそれは俺たちから見た場合の話だ。お前の父親が真に考えていることなど他人には分からぬ」
「だけど、ネストル様はそう思っているのでしょう?」
それがシメオンだけの言葉だったらラフィーナはきっと信じなかった。あの時、誰も否定しなかった。エリオスもイリスも、ネストルも。だから今、こんなにも胸が重くて苦しい。
「聞いたことをそのまま信じるな。疑えと言っただろう。俺がお前を騙している可能性だってある」
「そんな可能性はないわ」
言葉は口をついて出た。ネストルが自分を騙すなどあり得ない。だって騙したいなら知識を身につけろなんて言わない。外に出ろなんて言わない。優しい言葉だけを囁くべきだ。
「……ああ、そうなのね、お父様はそうしていたのだわ」
実感した。自分の育った環境の意味を。胸にぽっかりと穴が空いたよう。悲しいのに、辛いのに、怒りたいのに、心は不自然なほど凪いでいる。それは諦めにも似ていた。
ネストルと目が合った。
「ここへ来るまでずっと考えていたわ」
何度もシメオンの言葉を反芻して、父と自分のことを考えた。その度に辿り着くのは父の行動の意味。残るのはシメオンの話に対する裏付けのみ。今のように。
鼻がツンとした。
「お父様が愛していたのはわたくしではない……」
父が愛したのはこの体に眠る魔法だけなのか。震える手で頬に触れると濡れていた。それに少しだけ安堵した。風が濡れた頬を冷やす。ネストルの銀の髪が踊る。いつも冷たく静かな目は今も変わらない。
「ならば、誰がわたくしを愛してくれると言うの……?」
父と兄は愛していると言ってくれた。父と兄だけが言ってくれた。だからあの2人を失えばもういない。特別な存在である母親は自分にはいないのだから。
ごめんなさい、と小さく謝って袖で涙を拭った。泣くつもりはなかったのに。ネストルの顔を見ていると涙が出た。ネストルは「食え」と籠を目で示した。サンドイッチを一つ手に取り、鼻を啜りながら齧る。朝ごはんも食べていなかったことを思い出した。
ネストルがカップを差し出してくれる。お茶の入ったカップ。もう片手にはポットが。お茶まで用意してくれていたとは、さすがクレイトス。準備がいい。
「ネストル様は食べないの?」
受け取りながら聞くと、ネストルは少し迷う素振りを見せ、おもむろに手を伸ばした。自分と同じようにサンドイッチを齧るネストルを見る。
誰かとご飯を食べるなんて、離宮を出て以来初めてな気がする。胸がじんわりと温かくなり、ラフィーナは鼻を啜りながらもふふっと笑った。




