80.静かな空間
クレイトスに連れられてネストルの執務室へ行くと、ネストルはラフィーナの顔を見た途端舌打ちをした。機嫌が悪い。ラフィーナの部屋を出て行ってからここで仕事をしていたのだろうか。机の上は書類で埋め尽くされていた。
「……急ぎの仕事がある。知っているだろう、クレイトス」
机に視線を落としたままネストルは冷たく言った。クレイトスは「ええ」と頷く。慌てて口を開いた。
「ごめんなさい、来たいと言ったのはわたくしなの」
クレイトスはただラフィーナのわがままを叶えただけ。責められるべきはクレイトスでなく自分。ネストルは手を止めて顔を上げた。静かな目がラフィーナを見る。
「別の部屋で待て」
それだけ言うとネストルはまた視線を落とした。急ぎの仕事が終わったら来てくれるということだと分かった。それだけで充分なはずなのに、ラフィーナの足は動かなかった。いつまでもそこに立ち尽くすラフィーナを、ネストルは怪訝そうな顔を向けた。
「邪魔はしないわ。静かにしているから、ここにいたいの……」
パーティーの日からある衝立のせいでここからは見えないけど、そこにはソファがあるはず。何も話さなくてもいいからネストルの近くにいたい。そんなラフィーナのわがままにネストルは一瞬だけ視線をソファへ向けた。
「……静かにしていろ」
それが許可だと理解して胸を撫で下ろす。迷惑だと言われるかと思った。できるだけ足音を立てずに歩いてソファへと座る。すぐにクレイトスがお茶を2杯淹れ、ネストルとラフィーナの前に置いた。そのままクレイトスはもう一つある机に向かい、書類を手に取る。いつも空いているもう一つの机はクレイトスのものだったのね、と思った。
下を向いたネストルの横顔を眺めながら先ほどのシメオンとイリスの話を思い出す。知らなかったのはラフィーナだけ。
……わたくしだけが皆と違う世界を見ていたのね。
ぼんやりとそう思った。
少しするとネストルが苛立たしげに舌打ちをした。
「遅い。クレイトス、文官を急かして来い」
「はいはい」
苦笑するクレイトスが立ち上がり、次いで扉が開閉する音が衝立の向こうから聞こえた。ラフィーナは変わらずぼんやりとしながらネストルを見る。
何度も何度も自分の知らなかった事実を頭の中で繰り返す。自分が聞かされたこと、知っていたことを何度も。なんとも思わない。まるで心が麻痺したよう。
少しすると控えめなノックの音が響いた。
『し、失礼いたします』
男の小さな声。クレイトスが急かしに行った文官だろうか。
『遅い』
『ひっ……申し訳ありません』
苛立ちを隠さないネストルの様子に文官は小さく悲鳴を上げた。
『早く寄越せ』
肘を机につけ、手のひらを上に向けるネストル。パタパタと焦った足音が聞こえる。それを耳で追っていると、不意にネストルが『止まれ』と言った。言葉に合わせて止まる足音。ネストルは一瞬だけラフィーナに視線を向け、ため息をついて立ち上がった。
『あ、あの……?』
文官の戸惑う声。ネストルが歩き、衝立の向こうに見えなくなる。
『次からはもっと早く終わらせろ』
『は、はいっ! 申し訳ありませんでした!』
『下がれ』
再び落ち着きのない足音が聞こえ、扉の開閉音がした。ネストルが紙を手に椅子へ腰掛ける。そこで気が付いた。文官がネストルの元へ行けば自分が見える。ここに自分がいることはあまり体裁のいいことではないのだろう。
邪魔をしないからここにいさせてくれ、と言ったのにいるだけで邪魔になってしまった。申し訳ない想いでネストルを見たが、ネストルは何やらを書いていて顔を上げない。ラフィーナは俯いて背もたれに体を預けた。
ぼうっとしていると、不意に影が差した。顔を上げる。ネストルが目の前に立っていた。自分を見下ろす無表情。まだ機嫌が悪いのかもしれない。わたくしのせいかしら、と思った。
「場所を変える。来い」
ネストルはそう言って背中を向けた。慌てて立ち上がってその背を追う。どこへ行くのだろう。扉を開け、ネストルは不意に足を止めた。
「お疲れ様でした。馬車の用意はできています。どうぞ」
クレイトスの声が聞こえた。
馬車に揺られる。向かいではネストルが不機嫌を露わに顔をしかめている。
「どこへ向かっているの?」
「知らん」
短い答えだった。クレイトスに言われるまま馬車に乗ったのは自分もネストルも同じだ。答えの分かりきった質問をしてしまったことを少し悔いた。ただでさえ悪いネストルの機嫌がもっと悪くなってしまったかもしれない。
黙って座っていると、馬車は段々と遅くなり、やがて止まった。扉が開き、先にネストルが降りた。ラフィーナもクレイトスの手を借りて降りる。
ふわりとした地面。吹き抜ける風。照りつける太陽。春に来たあの場所だった。薄い緑だった木々は濃い緑に姿を変え、彩豊かだった花々はその姿をひそめている。
あの時は春の香り包まれた場所だったが、今は夏を感じる場所である。地面に落ちた濃い影がその太陽の強さを物語っている。じわりと汗が出てきた。
「どうしてここに?」
「レガルディア城の敷地内の森です。人の来るような場所ではありませんので遠慮なくお過ごしください」
クレイトスはにこりと笑って言った。ここが森の入り口であることはラフィーナにも分かる。一歩入れば木々に囲まれるであろうことも分かる。聞きたかったのはここへ来た理由だったのだが。
クレイトスは御者台に置いていた籠を取り、ラフィーナへと差し出した。受け取って少しの重みを感じる。何が入っているのかしら? 首を傾げた。
「必要なものはこちらに入っております。ネストル様には念の為こちらを」
そう言って今度は剣を取り出したクレイトスは、それをネストルへと差し出した。
「……なんのつもりだ」
ネストルがあからさまに嫌な顔をした。差し出された剣を取るつもりはないとばかりに手はポケットに入れたまま。
「おや、受け取っていただけないとなるとラフィーナ様へお渡しするしかないのですが」
目の前に差し出された剣。反射的に手を伸ばした。届く前にチッと舌打ちが聞こえ、横から手が剣を握った。クレイトスがにこりと笑う。
「後ほどお迎えにあがりますね」
「おい」
ネストルの怒気をはらんだ声にすら気にした様子を見せず、クレイトスは御者台へ乗るとそのままガラガラと遠ざかって行った。
「ええと……」
置いて行かれた。困惑してネストルを見る。ネストルは深いため息をつくと、ラフィーナの持っていた籠をひったくるように取った。
そのまま森の中へと進んで行く。呆然としたままその背を見ていると、ネストルは「来ないのか」と振り返った。状況がまだ飲み込めない。ラフィーナはとりあえずネストルの背を追った。




