79.イリス
部屋の中はラフィーナとイリスとクレイトスの3人になった。イリスが机の上のカップを片付けるのを眺める。カチャ、と何度か音が立つ。
「イリス」
呼びかけると、イリスはぎこちなく手を止めてラフィーナを見た。結んだ唇に彷徨う視線。まるでこれから言われることを恐れているような表情だ。
「あなたは知っていたのね」
もう何年も一緒にいる。イリスが普段と違うことくらいは分かる。唇を噛んだイリスは、決意するように一度硬く目を瞑った。
「申し訳ありません」
真っ直ぐな目がラフィーナを見る。その目に恐れが見える。イリスは何に怯えているのだろう。ラフィーナはゆるゆると首を横に振った。
「責めてはいないわ。わたくしは聞きたいだけ。覚えているの。ネストル様達が離宮に来た時、あなたは馬車を見て笑っていたわ。まるでそうなることを望んでいたかのように」
不思議で仕方なかった。父が来ても兄が来ても表情ひとつ変えなかったイリスがあの時だけは窓の外を見て笑っていたこと。いつもと違ったからよく覚えている。
「イリス、あなたはわたくしのことを誰かに話したの?」
イリスが息を呑んだ。大きく目を見開いてラフィーナを見る。
母を攫った父が、他国の皇族の証を持つ自分の存在を触れ回るわけがない。だからこそ離宮に隠されて育ったのだ。そんな自分の情報が帝国の皇族に入るとは思えない。誰かが故意に漏らさなければ。
そうなるとあの馬車が訪れたことを喜んでいたイリスしか考えられない。
そう言うと、クレイトスが感心したように頷いた。世間の常識すらも知らないラフィーナだけど、決して馬鹿ではない。与えられた情報から考えることくらいできる。
「……おっしゃる通りです。ですがラフィーナ様のことを話したのは私ではありません」
イリスは静かな声で頷いた。
「私は王国の四大名家と呼ばれる家の一つの生まれで、当主の父を持ちます。父はラフィーナ様のことを知っていました。だから、ラフィーナ様のばあやが亡くなった時、次の世話係に娘である私を推薦したのです」
ラフィーナは雷に打たれたような衝撃を覚えた。驚いたのはイリスの生まれでも、イリスが離宮に来た経緯でもない。
「……そう、ばあやはもういないのね」
いつかまた会えるのだと思っていた。ネストルに頼めば会うことができるのだと。だけど、そうか、あの時ばあやはいなくなったのか。
「ラフィーナ様……」
気遣うようなイリスの声。「続けて」と先を促した。聞きたいと言ったのは自分。話の腰を折るわけにはいかない。イリスは一瞬だけ逡巡を見せたが、すぐにまた語り出した。
「魔法も使えず口もきけない私を王はすぐにラフィーナ様の侍女に決定されました。私が父から与えられた役目はラフィーナ様のお世話をすることと、その時が来たら共に行くことでした」
強張った顔で笑うイリス。今にも泣いてしまいそうに見える。両手はスカートを握りしめていて、ラフィーナはその皺をぼんやりと眺めた。
「私はラフィーナ様があの離宮から出ることが……お父様やお兄様から逃れることが幸福に繋がるのだと思っていました。だからネストル様がいらっしゃった時は言葉では表せないほど嬉しかったのです」
イリスが顔を上げ、その目が一点で止まった。視線を辿るとそこには窓がある。小鳥が止まっていた。
「だけどここへ来てラフィーナ様は暗い顔をすることが増えました」
ゆっくりと歩くイリス。窓の前で手を伸ばすと、イリスの指に小鳥が乗った。それを持ち上げて目を合わせるようにしたイリスは小さく呟いた。
「……私たちはラフィーナ様の美しい世界を壊すべきではなかったのかもしれません」
迷っているのか、悲しんでいるのか、苦しんでいるのか。その声は揺れていた。イリスの心がそこに見えた。
「父は魔法で動物と意思疎通をすることができます。だからラフィーナ様のことも知っていた。……きっと、このことも知ってしまうのね。ごめんなさい」
噛み締めるように呟いたイリスは鳥を乗せた手を窓の外へと出した。その指から鳥が羽ばたく。椅子に座ったままのラフィーナから鳥の行方は分からなかったが、イリスはじっと外を見ていた。やがて見えなくなったのか、こちらを振り返ったイリスはゆっくりと頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「謝らないで」
イリスの気持ちは分かる。イリスはただひたすらに自分のことを考えてくれている。ラフィーナだってまだ分からない。自分が望んでいることも、これからどうなるのかも。だけど結果なんてどうでもいい。今はイリスのその気持ちだけが嬉しい。
「イリスの言う通りよ。言葉を知って、世界を知って、自分を知って、胸が絞られるような痛みはたくさんあるし、怒りで涙が出たこともあるわ。鮮明になった世界は全然美しくないし、あの離宮に戻りたいと思うこともある」
イリスが顔を上げてラフィーナを見る。揺れる瞳がその傷を映していた。
今でもあの頃に戻りたいと思うことはある。何もかも全てを忘れて何も知らない自分のまま、美しい世界だけを見ていたいと望むことは少なくない。
「でもね、わたくしはわたくしの心を知りたいの。お父様やお兄様の言葉ではなく、自分の言葉を話せることが嬉しいの」
イリスの目から涙があふれる。
「それに美しいものもあるのよ。わたくしはネストル様に会えたということだけで、あの離宮から出て良かったと思えるの」
ネストルだけじゃない。クレイトスもタリアもエリオスもルイーズもゼノンもシメオンも。あの離宮にいたら絶対に会えなかった。
自然と頬が緩んだ。風がイリスの髪を揺らし、涙で濡れた頬にくっついた。
「だからね、謝らないで。イリスはイリスの正しさを選んだだけなのよ」
ラフィーナはまだ自分の正しさを見つけられていない。だからイリスの正しさを肯定することも否定することもできない。皆の正しさがどんな結果をもたらすのかなんて分からない。でも一つだけ言える。
「もしかしたら、イリスの正しさはわたくしの正しさではないかもしれないけれど、離宮にはない幸福がここにあることは確かだわ」
笑顔を向けると、イリスは大きく目を見開き、両手で顔を覆って泣いた。
それを見ながらラフィーナは自分の頬に触れる。濡れていない。どうして自分は笑っているのだろう。そう思った。




