78.母
部屋の中にため息がふたつ重なって落ちる。クレイトスとエリオスだった。
『話はまだ終わっていないというのに、あいつは本当に子供だな』
『父上がまた虐めたのでは?』
呆れたようなシメオンにエリオスも呆れたように言った。『そうかもな』とシメオンは笑った。
『ほどほどにしてください。ネストルはよくやってくれています』
『分かっている。だがな……』
シメオンが苦々しい顔でエリオスを見た。
『お前らの中ではあれが一番私に似ている。同族嫌悪というやつか……いや、嫌っているわけではないが』
エリオスと話すシメオンの表情は先ほどよりも人間味が溢れていた。これが父親の顔だろうか。エリオスはにこりと笑みを浮かべる。
『ネストルは父上には似ていませんよ。あいつにはまだ可愛げがありますから』
小さな棘を含んだ言葉にシメオンはにやりと笑った。
『私にだって昔はあったさ』
『ご冗談を』
エリオスは笑顔で一蹴した。優しくて穏やかなエリオス。でもたまにそこに何かが含まれていることがある。ラフィーナはそんなエリオスが実は結構好きだった。珍しくて。
『話を戻しましょう』とエリオスは言った。
『ラフィーナ、何か聞きたいことはあるかい?』
問われ、ラフィーナは頷く。
『わたくしのお母様はまだ王国にいるの?』
『いない』
短く答えたのはシメオンだった。
『ソフィアはラフィーナを産んだ時に命を落としたと聞いている。遺体は今探しているがそれも難航している』
ラフィーナはそうなの、と頷いた。感慨はない。もし生きているのなら、会うことができたなら、母は真に自分を愛していると言ってくれていたのかもしれない、と思っただけ。
もうすっかり冷めたカップを、意味もなく指でつつく。爪に当たる無機質な感触。今すぐにこれを鷲掴んで投げたい衝動に駆られた。慌てて手を握り、引っ込め、微かに揺れる水面を見つめる。
『……お父様はどうしているの? 迎えに来るっておっしゃっていたわ』
声は段々と小さくなった。父が迎えに来るのは自分ではなく自分の魔法であると知ったから。胸がじくりと痛んだ。
『ドラウゼンは戦の準備中だ。そう遠くない内に攻めてくるだろう』
それはまた戦争をするということだろうか。王国と帝国が母を巡って争い、次は自分を巡って……?
顔を上げるとシメオンは冷たい笑みを浮かべていた。
『どうして? ミルヴェンの人は他にもいるのでしょう? どうしてわたくしなの?』
『ミルヴェンはいる。だが基本的に魔法の継承は二代以内でしか行われない。その条件で当てはまるのが今はお前しかいない』
そもそも、とシメオンは続ける。
『何年後に生まれるか分からない人間よりも、お前の魔法の目覚めを待った方が早いし確実だ。ドラウゼン王は必ずお前を狙って攻めてくる』
分からない。分からない。いつも何も分からない自分なのに、どうしてシメオンの話は分かるのか、分からない。分かりたくない。分からないままでいたい。俯いた視界に、微かな風に揺れるスカートが見えた。
『今度こそ殺しておけよ。戦争が終わった時点でドラウゼンの王を殺せばよかったんだ』
ため息混じりのシメオンの言葉に、心臓が止まったような気さえした。誰に言ったのだろう、と思った時、エリオスの穏やかな声が聞こえた。
『殺しませんよ。傀儡の皇帝は叔父上だけで十分です。僕は父上の傀儡にはならず、僕なりのやり方で帝国を作ります』
ゆっくりと顔を上げる。エリオスは微笑んでいた。
『文句がありましたらどうぞ、僕を殺してご自分で玉座に座ってください』
言葉と声が不釣り合いで、ラフィーナには一瞬エリオスが何を言っているのか分からなかった。シメオンは、はは、と笑う。
『お前は母に似ているな。あれは強い女だった』
『そうでしょうね。その姿のあなたと子を作れるんですから』
ルイーズとクレイトスが苦笑し、タリアは顔をしかめた。皮肉か冗談なのだろうとは思ったが、ラフィーナにはいまいち掴めない。シメオンが笑いながら立ち上がる。父上、とエリオスが笑みを消した。
『母上を愛していましたか?』
シメオンは静かに微笑んだ。
『そうでなければお前の弟や妹はいなかっただろうな』
その言葉でタリアの顔に驚きが浮かんだ。目を見開いてシメオンを見る、その横顔。どこか嬉しそうにも見える。扉へ向かうシメオン。
『ではネストルのことは?』
ピタリとシメオンの足が止まった。少しの沈黙。そしてシメオンはまたゆっくりと歩き出した。
『さあな』
そのまま出て行く。その背中がやはりネストルと重なった。親子だからだろうか。なんて考えていると何か大きな音がすぐ近くからした。
びくっと体が揺れ、意識が戻る。タリアだった。両手を机につけ、頬を膨らませている。机を叩いたのだろうか。
『何あれ! 嫌な感じ! あたしほんとあの人嫌い!』
クレイトスもエリオスもルイーズも同じ表情でタリアを見ていた。困ったような笑顔。ラフィーナは誰のことを言っているのか分からなくて首を傾げる。タリアが『あの人』と呼ぶ人、『嫌い』と言う人。まさかシメオンのことか。
『父さまはネストル兄さまのことが嫌いなのよ! だからいつも意地悪言うの! ちっちゃい頃からずっとだもん!』
怒った様子のタリアは『なによ!』ともう一度机を叩いた。
『タリア、父上はネストルを嫌っていないと言っていただろう?』
『口でだったらなんとでも言えるよ! 父さまが大切なのはエリオス兄さまだけで、ネストル兄さまもあたしのこともどうでもいいんだよ……』
勢いはだんだんと弱まり、最後の方では怒りよりも悲しみが濃く出ていた。
『タリア様……』
ルイーズが気遣わしげに名前を呼んだ時だった。
『あー! もう! あたし知らない! むしゃくしゃするからちょっと出て来る!』
タリアは叫ぶようにそう言うとフワフワとした足取りで部屋を出て行った。残ったのは5人。クレイトス、エリオス、ルイーズは苦笑して閉じた扉を見ている。イリスは俯いて立っているだけ。イリスは今の話を知っていたのだろうか。聞こうとしたが、先に呼ばれた。
『ラフィーナ、聞きたいことがあったらいつでも聞いてくれ。答えられることならなんでも答えるよ』
エリオスが微笑んでいた。いつの間にかルイーズもその隣に立っている。
『ええ、ありがとう』
じゃあ、と2人も部屋を出て行った。




