76.シメオン
『遅かったな』
ネストルかと思った。窓の前に立ち、半身で振り向いたその姿。誰もいないはずのラフィーナの部屋。そこに彼はいた。差し込む太陽に煌めく銀色。薄い色の双眸。
後ろでイリスが息を呑む気配があった。見間違うほどに似ている。別人だと分かったのは彼がその顔に幼さを残しているから。浮かんだ笑みが冷たくないから。何よりも、本物のネストルはラフィーナの隣にいるから。
ラフィーナは知っていた。自分やネストルと同じ色を持ち、ネストルと似た顔と声を持つ少年を。いつかの夜に会ったこの少年を。
『ええと……お名前はなんと言ったかしら……?』
小さく呟くと『シメオンだ』と返ってきた。そうだ、シメオン。ネストルの執務室へ案内してくれた彼。母を知っている彼。
『久しいな、ラフィーナ。困り事はないか?』
大丈夫よ、と口を開こうとしたが、先にネストルが遮った。
『どういうつもりですか』
部屋の中が凍ってしまうのではないかと思うくらいの冷たい声。いつもとは比にならないほど。シメオンは『なんだ』と唇の端を上げてネストルを見る。それは見下しているように見えた。
『話をしたいだけだ。何か問題があるか?』
『人の部屋に無断で立ち入るなど、論外です』
『対話を放棄するお前が論を語るのか』
面白いな、とシメオンは笑った。だがネストルを見るその目は笑っていない。仲が悪いのだろうか。こんなにも似ているのに。
『ネストル様、シメオン様。その辺りでお納めくださいませ。ラフィーナ様がいらっしゃることをお忘れにならないよう、お願いいたします』
いつもより丁寧なクレイトスの言葉。シメオンがいるからだろうか。ネストルの身内だとは聞いているが、シメオンは誰なのだろう。ネストルが敬語を使うような相手。ラフィーナがじっと見ていると、シメオンもラフィーナへと目を向けた。
『ラフィーナ、この国はどうだ』
前にも聞かれた問い。あの時自分はなんと答えたか。覚えていない。でも多分、分からないと言った。
『……分からないわ。この国も、お父様の国も、世界も、わたくしはまだ何も知らないもの。だけどね、ここでネストル様達と一緒に生きていけるのなら、きっとそれは言葉では表せないほどの幸福だと思うわ』
それが今のラフィーナの精一杯。まだ自分がどうしたいのかなんて分からないけれど、そう言えるほどはここでの生活に幸福を感じている。シメオンは笑った。唇の端を上げるだけじゃない、満足そうな笑みで。
『……ラフィーナがよほど気に入ったようですね』
その声と、呆れたようなため息が聞こえた。声の主はネストル、ため息の主はクレイトスだった。シメオンは笑みを消してネストルを見る。
『それはお前の方だろう。まさか鈴まで渡すとはな』
冷ややかな表情。それは信じられないほどネストルに似ている。
『母の二の舞にならないといいな』
その言葉に空気が変わった。冷ややかだったネストルの目には怒りが宿り、堪えるように歯を食いしばっているのが分かる。クレイトスの顔に焦りが浮かんでいるのが見えた。
シメオンは全く気にせずにふっと笑う。
『困ったらだんまりか。変わっていないな。青臭いガキが一丁前な口をきくな』
ラフィーナは息を呑んだ。ネストルを、あのネストルを子供扱いするなど。信じられない気持ちでいっぱいだ。
クレイトスが小声でネストルを呼ぶ。嗜めるような響きを含んだ声に、ネストルは『分かっている』と絞り出したような声で答えた。次いで怒りを抑えるように長い息を吐いた。
『……私に嫌味を言う為ににここまで来たのですか、父上』
思わずネストルを見た。ネストルは目に微かな怒りを残したまま、無表情にシメオンを見ている。今なんと言った? 父上? シメオンがネストルの父?
視界の端に驚くイリスの顔が見える。同じ心境であろうイリスはクレイトスの方を見ていた。ラフィーナはもう一度シメオンを見る。子供だ。どう見ても子供。成人していないどころか、15にもなっていないような子供。
驚くラフィーナを見てシメオンはくつくつと笑った。
『自己紹介がまだだったな。前々皇帝の息子で、前皇帝の兄、現皇帝の父。それから、お前の母の従兄弟だ』
並べられた言葉。ラフィーナの頭の中は疑問符で埋め尽くされた。
『前々皇帝の……現皇帝……エリオス様? の、お父様……?』
理解ができない。
『お母様の従兄弟……?』
分からないことだらけの中でも、これは特に不可解なことだった。眉間に皺を寄せるラフィーナに、ネストルは小さなため息をついた。
『見た目に惑わされるな。そいつは50歳だ。魔法で身体の時を止めている』
『父に向かってそいつとは随分な言い草だな。ラフィーナの前でこれ以上にみっともない姿を晒したいのか?』
ネストルがシメオンから視線を逸らして舌打ちをした。よく分からないけど魔法というなら一応納得はできる。不可解なことは全部魔法。ラフィーナは心の中で呟いた。
『ラフィーナ、お前の話をしに来た。座れ』
シメオンの言葉に、ラフィーナは一瞬迷ってネストルを見た。しかしネストルはラフィーナを見ることも言葉を発することもない。
『ラフィーナ様、どうぞお座りください』
助け舟を出してくれたのはクレイトスだった。穏やかな声にほっとしていつもの椅子へと腰掛ける。シメオンはラフィーナの向かいに座った。50歳だと聞いてもまだ実感が湧かない。なぜなら目に映る姿が子供だから。魔法ってすごいわ、と思いながらまじまじと見ていると、シメオンと目が合った。
ラフィーナの考えていることを読んだかのように『すごいだろう』と笑う。
『肉体年齢は12歳といったところだな。子が出来るぎりぎりの年齢だ。私は自らの身体の時を操ることができる。だが止めたり進めたりすることはできても戻すことはできないからな。故にできるだけ若い姿で止めている』
『そうなのね……』
それ以上の言葉は出て来なかった。そういえばネストル達の父は魔力が膨大だと話を聞いた覚えがある。
『あの、ご病気だというのは……? 療養中だとお聞きした覚えがあるのだけど』
『嘘だ。私の存在は帝国の最高機密でな。一部の人間しか知らない。療養中だと言っておけば表に出る必要がないだろう?』
それはそうだ。納得して頷いた時、ゆったりとした足音と、リズムの狂わない足音、それから軽い足音が近付いて来た。




