73.愛情
『どこに行っていたの!?』
馬車を降りると、タリアが仁王立ちしていた。腕を組んでこちらを見る顔は、不機嫌に頬を膨らませている。ネストルは面倒くさそうにため息をついた。
「お前には関係ない」
帝国後に王国語で返され、タリアはわずかに眉をひそめたがすぐに目を吊り上げた。
「やっと謹慎があけて姉さまに会いに行ったらいないんだもん! ネストル兄さまばっかり姉さまを独り占めしてずるい!」
少し視線をずらすと困ったように笑うイリスが立っていた。今までこの場所で出迎えなどされたことがないので、部屋に来たタリアに引っ張られて来たのだろう。
「知らん。いるなら持って行け」
素っ気なく言ったネストルは鬱陶しそうにタリアを見て、スタスタと歩いて行く。しかしその腕をタリアが掴んで止めた。いつも漂っている髪が今日は逆さと言っても過言ではないくらい逆立っている。タリアの怒りが髪に表れているのだろうか。
「何その言い方! 姉さまは物じゃないんだよ!」
いや、違う。魔法に表れているのだ。なんて考える。眉間に皺を寄せたネストルは再びため息をついてクレイトスを見た。
「クレイトス、これをどうにかしろ」
「無理です」
間髪入れず首を振るクレイトス。ネストルは舌打ちをして乱暴に腕を振り解いた。
「お前の待ち人はそっちだろう。どけ」
「ん? 兄さまなんか機嫌いいね……?」
耳を疑った。心底嫌そうな表情を浮かべるネストル。どこが機嫌がいいと言うのだろう。ラフィーナにはいつも通りにしか見えない。ネストルはもう一度舌打ちをして、今度こそ歩き去った。
「もう!」
怒りをあらわに頬を膨らませるタリアを見ていると、後ろから声をかけられた。
「ラフィーナ様、まずはお部屋でお召し替えをお勧めします」
クレイトスの言葉に改めて自分の服を見る。泥がたくさんついている。自分は気にならないけれど、このままでは綺麗なお城の廊下に泥が落ちてしまう。掃除の人が大変だわ、と思い頷いた。
「姉さまそれどうしたの? 誰かにいじめられた?」
ラフィーナの服を指して、タリアはからりとした笑顔を浮かべた。
「そういえば兄さまの服にもついてたね。兄さまをいじめるような馬鹿はどこにもいないと思うんだけど」
「街で少々予想外のことが起こりまして」
答えたのはクレイトスだった。タリアは「ふーん」と背中を向ける。「行こ」と歩き出し、隣に並ぶと「馬車降りたんだ」と小さく呟くのが聞こえた。
「ねえ、タリア様。親子とはどうして特別なの?」
泥のついた服を脱ぎながら尋ねると、タリアはお茶を飲みながらラフィーナを見た。親子とは特別らしい。でもなぜ特別なのか分からない。
「えっと……」
すぐに答えが返って来るかと思ったが、意外にもタリアは口ごもった。彷徨う視線がラフィーナヘ向き、天井へ向き、開いた窓へ向き、イリスへ向き、手元のお茶へ向き……そしてラフィーナへ戻る。
「……ごめん、あたしにもよく分かんない」
しゅん、と肩を落としたタリアは両手でカップを包むように持ち、そこへ視線を落とした。
「あたし達の母さまはあたしが産まれてすぐに死んじゃったし、父さまはいるけど、親子として会ったことなんて一回もないし……」
ごめん、とタリアはもう一度謝った。意外だった。タリアは母親の特別性を知っているものかと思っていた。前にそのようなことを言っていたから。新しい服をイリスから受け取って頭からかぶる。服から顔を出すと緩い風が頬を撫でた。
「だからあたしさ、子供の時他の子が羨ましかったの。遊んでいてもお母様の姿を見たら走り寄る子とか、その笑顔が見たことないくらい嬉しそうだったりとか、お母様の方も優しく笑ったりとか、そんなのが羨ましくてね」
なんとなく分かる気がする。ラフィーナ自身、街で見かけた母子の様子を見て胸が締め付けられたことがある。あんな風に笑顔を向け、向けられたいと心のどこかで思ったこともある。
「……さっきね、子供がわたくし達の横でこけたの。それでそのお父様が走って来て、自分の命で償うから子供は助けてくれって頭を下げたのよ」
あの父親は泥が服に跳ねたことで、ネストルが怒って子供を殺すことを危惧していた。だから自分の命と引き換えに子供を助けようとした。ネストルは馬車の中でそう言った。
ラフィーナには不思議でたまらなかった。自分の命でーー自分が死んでも助けようとするその気持ちが。死とは苦しいもので、一度死んだらもう戻らなくて、もう誰にも会えなくて。そんな怖い想いをしてまで助けようとするなんて。
分からない、と言ったら親だからな、とネストルは言った。
「わたくしには分からないわ。親子とは何? 自分の命をも差し出すような存在なの?」
「うーん、一般的にはそうなのかも」
着終わった服の裾を整えて、タリアの向かいに座る。眉間に皺を寄せるタリア。この顔を知っている。すごく考えている時の顔。
「あたしは親の立場でも子供の立場でも語ることはできないけど、多分親子って世界で一番近い人間なんだと思う」
「世界で一番……?」
父の顔を思い浮かべる。愛しているよ、と囁く父の笑み。お前は何も知らなくていい、と怒る父の冷たい顔。
「うん、姉さまもお父様のことそんなふうに思ったことない?」
お父様が世界で一番近い……? 少し考えてラフィーナは首を横に振った。
「お父様はわたくしの世界の全てだったわ。お父様がいるだけで幸せだったし、お父様の言葉に間違いはないと思っていたの。誰よりも大切で誰よりも大好きで……だけど不思議ね。今こうして考えてみると、お父様は何よりも遠い存在のように思えるわ」
あの頃は見えなかったものが今から見える。父は自分が想うように、自分のことを想っていなかったこと。手は届いても心は届いていなかったこと。誰よりも近くて誰よりも遠かった。
「ああ、そっかぁ……」
思案顔。眉を寄せて「うーん」と唸るその顔を見て思わず笑みがこぼれた。
「困らせてしまったわね、ごめんなさい。もういいわ。考えてくれてありがとう」
答えは出なかったけど、タリアが自分の問いに必死に考えてくれたことが嬉しかった。
「うん、ごめん、ちゃんと答えられなくて。こんな時兄さま達だったらいいことを言えるんだろうけど……」
確かにエリオスやネストルだったら答えに導いてくれるかもしれない。でも、
「あのお二人の言葉は難しいの」
そう言うとタリアは「分かるよ」と頷いた。
「エリオス兄さまは遠回しだし、ネストル兄さまは言葉は直球だけど考えが深すぎてよく分からないし……難しいよね」
うんうん、と同意を示して頷いたタリアはカップを持ち上げた。お茶が揺れるのを眺める。
「でもね、多分特別なのって親子だけじゃないよ。親子じゃなくても自分の命よりも大切な人がいる人もいるから」
「そうなの?」
揺れる水面。それに口をつけたタリアはこくりとお茶を飲んで、にっこりと笑った。
「多分ね、そういうのって愛情って言うんだと思う」
「愛情……」
タリアの言葉を繰り返す。愛している、と父や兄は自分に言った。でもきっと父や兄は自分の為には死んでくれない。そして自分もきっと父や兄の為には死ねない。ならば誰だったら……?
「姉さまにもそんな人がもういるかもしれないし、これからできるかもだよ」
タリアはそう言った。




