72.泥
『申し訳ありません……っ!』
悲鳴のような声だった。
『こいつはしっかりと罰しておきます! どうか命だけは……!』
上擦った声。あまりの勢いにラフィーナは困惑して、後ろにいるネストルとクレイトスを見た。ネストルは無表情でラフィーナの顔を見る。クレイトスは困ったように笑っているだけ。何も言わない2人から視線を逸らして、再び目の前でひれ伏す男を見た。
『……あの、』
『申し訳ございません……っ!』
言葉を遮る大きな声に、ラフィーナはやはり困惑する。どうして謝られているのだろう。痛かったのは転んだ子供の方だというのに。子供は突然泥の中に押さえつけられ、何が何か分からないといった顔で起きあがろうともがいている。
『離してあげて。苦しそうだわ』
転んだ上に地面に押さえつけられるなんて、自分だったら涙が出そうだ。なんて思って口にした言葉に、男は恐る恐る顔を上げてラフィーナを見た。
『謝られる理由が分からないわ』
『は……? で、ですが、その、顔や服に泥が……』
そう言われて自分の服を見た。確かに泥が飛んでいる。白い服を着ていたので茶色がよく目立つ。振り返るとネストルの服にも、ラフィーナほど多くはないものの、似たような模様がついていた。男がそれを見て目を見開く。男の唇が震え、今度はゆっくりと頭を地面に擦り付けた。
『大変申し訳ありません……自分の命で償います。どうか倅の命は……』
小さな震える声。恐怖に支配された声。クレイトスの小さなため息が聞こえた。しかし何も言わないということはこの場で口を出すつもりはないのだろう。ラフィーナはネストルを見た。
面倒臭いとでも言いたそうな顔。目が合うと「好きにしろ」と言わんばかりに手をひらりと振った。
『別に怒っていないわ。謝らないでいいから早く離してあげて』
男の手に触れて子供の頭から手を離すように促すと、男は異様な速さで手を引いた。そしてラフィーナの触れた自らの手をまじまじと見る。
『大丈夫? びっくりさせてしまったわね』
ラフィーナは子供が立ち上がるのに手を貸す。子供の顔も手も泥だらけで、握った手に泥の冷たさを感じた。
『ごめんなさい、姉ちゃん。その服高いんだろ?』
『お前……っ! 黙って下がってろ!』
男が子供の腕を掴んで後ろへと投げるように下がらせた。
『父ちゃん……っ』
地面に投げ出された子供は痛みに顔を歪める。どうやら親子らしい。男はまた地面へとひれ伏す。
『本当に申し訳ありません。皇族の方の服どころか顔まで汚して、こんなにも汚いものを目に映してしまって……』
汚い……汚い? 頭の中で言葉を反芻して、ラフィーナは男の前にしゃがんだ。
『汚くないわ。ただの泥じゃない』
土と水が混ざっただけのもの。そこに当たり前にあるものがどうして汚いのだろう。男がポカンとしてラフィーナを見上げる。
『き、汚いのでは……?』
『汚いの?』
きょとんとして問い返すラフィーナ。振り向いてネストルを見上げると「さあな」と視線を巡らせた。そこで気が付いた。周りの人たちがこっちを見ている。分かりやすく集まってはいなくても道にいる人たちは皆足を止めていた。これでは自分たちが悪いようではないか。ラフィーナは少し慌てて男の手首を握って引っ張った。
『とりあえず立ってちょうだい』
『い、いけません!』
男が強い力で手を引く。ラフィーナの手は半ば振り払われるように解かれた。男は地面に膝をついたまま必死な様子で言った。
『こんな汚いものに触っては手が汚れてしまいます』
『汚くないわ』
『存在していて申し訳ありません……!』
異様に怯えた様子でそう言う男。なんとなく言葉が通じていない気がする。帝国語といっても通じないほど下手ではないはずだけど。
パチパチと瞬きをした時、後ろから「行くぞ」と静かな声が聞こえた。ええ、と立ち上がる。こうなっては自分たちがこの場を去ることが一番早い解決のように思えた。
『わたくし達はもう行くけれど、一つだけいいかしら?』
『へ、へぇ……』
男が何にそんなに怯えているのかは分からないし、何を言いたいのかもよく分からない。でも悲しい。
『空も花も人間も美しいばかりではないわ。美しいものしか存在してはいけないのなら、この世界からは全てのものが消えてしまうわ。だから生きていることを謝らないで』
それだけ言って、もう行こうとネストルを振り返る。途端、冷たい指が頬を撫でた。離れるネストルの手には茶色いものがついている。顔についていた泥を拭ってくれたのだ、と理解した。
「……全てのものが消えたとしてもお前だけは残るのだろうな」
淡々とした声。「どうして?」と首を傾げると、ネストルは歩き出して言った。
「俺がお前を美しいと思うからだ」
思わず息が止まった。心臓が跳ねた。驚きと嬉しさで。じわじわと頬が緩む。遠ざかる背中を小走りで追って隣に並んだ。
「それならネストル様も消えないわ。わたくしが美しいと思うから」
ネストルは微かに目を見開いてラフィーナを見た。ラフィーナはくすくすと笑いながら、ネストルと目を合わせた。
「世界には2人だけになってしまうわね」
なんて言ってみる。ネストルは少し沈黙し、次の瞬間、ふっと笑った。
「悪くない」
その笑顔が柔らかくて、声が温かくて。ラフィーナは思わず足を止めてしまった。心臓がわけも分からないくらい早くてうるさい。顔が一気に熱くなって、胸の中で熱が暴れた。
悪くない? 世界に2人だけが? 悪くないと言った? 笑った?
ラフィーナに合わせて足を止めたクレイトスを見る。
「こ、この感情は、なに……?」
熱い頬を両手で包んで聞いたが、クレイトスはただ笑みを浮かべるだけ。
道の先へと視線を移すと、ネストルが振り返って待っていた。




