71.街歩き
馬車が止まるのを感じ、ラフィーナは向かいに座るネストルの冷たい顔を見た。
「……わたくし、ネストル様と一緒に行きたいわ」
振り絞ったのは声か、勇気か。震える声にネストルの視線はゆっくりとラフィーナに向く。訝しげな表情を見て、ラフィーナは少しだけ後悔した。嫌なことを強制するつもりはない。ネストルの気持ちを考えていない発言だった。
「ごめんなさい、なんでもないわ」
それと同時に外からクレイトスが扉を開いた。ツン、と土と水の匂いが鼻を刺した。臭くはないけれど、あまり嗅いだことのない変な匂い。
「昨日の雨で地面がぬかるんでいるところがあります。お気を付けください」
「ええ」
腰を浮かせ、クレイトスの手を借りて降りる。確かにいつもに比べると地面の固さが少ない。少し柔らかなそれを踏み締める。地面がふわふわになったようで面白い。どうやら匂いの正体もこれのようだ。下から立ち昇る匂いを、空気と共に大きく吸い込んだ。
「……やはり先の舗装されたところまで馬車で行きましょうか」
クレイトスの呟きにラフィーナは慌てて顔を上げた。
「いいえ、わたくしは歩きたいわ。楽しいもの」
それなら、とクレイトスは微笑みを浮かべた。「行ってきます」と言う為に振り向いて、目が合った。
「……俺が周りからどう見られているか、知った上で言っているのか?」
静かで、だけど探るような目だった。ごくりと唾を飲み込む。胸がざわめいた。余計なことを言ってしまった。
「え、ええ……」
掠れた声で返事をすると、ネストルは少し沈黙し、無言で立ち上がった。
「ネストル様」
クレイトスが驚きを含んだ声でネストルを呼ぶ。ネストルは表情を全く変えず、クレイトスに返事をすることもなく馬車を降りた。
「後悔するぞ」
素っ気ない言い方。一緒に行ってくれるのだと分かり、自然と顔が綻んだ。
「しないわ」
ネストルが怖がられていることは知っている。それで街の人たちが今までのように気軽に話しかけてくれなくなったとしても、ラフィーナに悔いはない。ネストルと一緒に歩けるのなら。
人々の反応は顕著だった。いつもは少なからず遠巻きに見られることはあれど、物珍しそうな視線がほとんどで、分かりやすく避けられることはない。だが今日は違った。
こちらを見て慌てて目を逸らす店の人間。子供を急かして逃げるように家の中へ入る母親。怯えたように物陰に隠れる男たち。誰もが怯えているのは明らかだった。あっという間に道を歩く人間は半分ほどになる。
「まあ……!」
それは完全にラフィーナの予想外のことであった。ネストルが怖がられていることは知っている。だけど城の中ではネストルを怯える人はいてもこんなにも分かりやすく逃げる人はいない。だからネストルが街を歩いたところで、多少怯える人はあれど、特に問題はないのだと思っていた。楽観視していた。
後ろで小さなため息が聞こえた。振り向いてみるとクレイトスが困ったような笑みを浮かべていた。驚いているような感じではない。こうなることが分かっていたのだろうか。
逃げるように早足で去って行く人たちを見ながら、ラフィーナは思わず足を止めた。ネストルも隣で足を止める。ハッとした。傷付いているかもしれない。しかし見えた顔には笑みが浮かんでいた。
「だから言っただろう。後悔する、と」
静かな声は喧騒の中でも耳に届き、そこに含まれた響きに息を呑んだ。
「俺がいては買い物も碌にできん。馬車に戻る」
まるで嘲るようだった。そのまま踵を返すネストル。ラフィーナは咄嗟にネストルの手を握った。
「行かないで」
両手で握りしめた手は冷たくて、ネストルの心が現れているようだ。振り向いたネストルの視線が一瞬だけ彷徨う。
「わたくしはお買い物をしたいわけでも誰かをお話をしたいわけでもないの」
離せ、と言わんばかりに手が引き抜かれる。自らの手に残った冷たさを握り締めて、ラフィーナは続けた。
「エリオス様やネストル様が守っているこの街を、ネストル様と一緒に歩きたかったの」
賑やかで温かくて穏やかな街。ここをネストルとただ歩いてみたかった。それだけ。
ネストルの目が揺れた気がした。
「……俺といたらお前まで恐怖の対象になる」
そもそもラフィーナだって評判がいいわけではない。前に街に来た時も子供から面と向かって『変なお姫様だな』と言われたのだ。自分がおかしいことは知っているし、ネストルが優しいことも知っている。だから、
「気にならないわ」
はっきりと言った。クレイトスがふふ、と笑う。ネストルは微かに驚きを見せた後、「気にしろ」と小さく呟いて歩き出した。しかしその方向は馬車とは反対だ。どうやら一緒に歩いてくれるらしい。ふふっ、と笑いが漏れ、小走りでネストルの隣に並んだ。
その時だった。
『おい! そっちは……!』
大きな声が聞こえ、まばらになっていた人の間から子供が二人飛び出して来た。
『うちに来いよ! いい物見せてやる!』
『おう!』
満面の笑みで話しながら走る男の子が2人。楽しそうね、と思った瞬間、子供が転んだ。ラフィーナの真横で。ぬかるみに足を取られたのだろうか。高く泥が跳ね、頬に冷たい感触があった。
きゃあ! とどこかから聞こえる悲鳴。
『元気ね。いいことだわ』
ラフィーナは気にせず、笑みを浮かべて転んだ子供に手を差し出した。
『怪我はない?』
『あ、ああ……』
子供がラフィーナの手を握る直前だった。起きあがろうとしていた子供の頭を上から押さえる手があり、子供は再び地面へと突っ伏した。また泥が跳ねる。驚いて手を引くのと、子供の隣で誰かがひれ伏すのは同時だった。




