70.偶然
扉の向こうに立つネストルは、部屋の中を見て露骨に嫌な顔をした。どうしてネストルがここに来たのだろう。何か用事だろうか。首を傾げたラフィーナを見て、ネストルは全てを悟ったようにため息をついた。
「やあ、偶然だね、ネストル」
エリオスがネストルへ笑顔を向ける。
「……呼び出した相手に会うことは偶然とは言いませんよ、兄上」
不機嫌を隠さずに言いながら部屋へと踏み入るネストル。椅子はもう一つ空いているがそこに座ろうとはせず、少し離れたところで足を止めた。
ああ、エリオス様が呼んだのね、と納得していると、エリオスは首を横に振った。
「いいや、偶然だよ」
「この3日間鳴らなかった鈴が鳴ったと思えば兄上と義姉上がお揃いで……これが偶然だと?」
鈴が鳴った? 少し考えて思い出した。確かに鳴っていた。エリオスの手の中で、軽やかな音で。
「つまり、お前は3日間、鈴が鳴るのを待っていたわけだ」
揶揄うような声だった。ルイーズが柔らかな笑みを浮かべる。しかしラフィーナはどうしてそう思ったのかしら、と首を傾げた。皆のお話はよく分からないわ、と。
ネストルが顔をしかめ、舌打ちをした。クレイトスが苦笑し、エリオスはくすくすと笑う。ラフィーナは目の前の光景をただ眺めるだけ。だけどそれだけでも胸が温かくなった。
先ほどのエリオスの問いの答えはまだ出ていない。父が迎えに来た時自分はどうするのか。許されることならここにいたいと思う。だけど父と共に帰りたい気持ちも無ではない。
……お父様が来なかったらいいのに。
心のどこかでそう思って、そんな自分に驚いた。ずっと父に会いたかったはずなのに。
「揶揄って悪かったよ。鈴を鳴らしたのは僕だが、お前を呼んだのはラフィーナだ」
聞こえた自分の名前にラフィーナは思考をやめて顔を上げた。
「用事がないと鳴らせない、なんて暗い顔をされたら鳴らすほかないだろう?」
「え……?」
そんなことを言えば用事がないのに呼んだことがバレてしまう。ネストルが怒ったらどうしよう。なんて少し焦っていると、エリオスとルイーズが立ち上がった。
「僕たちはこれから父上のところへ行って来るよ」
「また会いましょう、ラフィーナ様」
ルイーズに笑みを向けられてラフィーナは頷いた。次に会う時はどちらだろう。騎士のルイーズか、皇后のルイーズか。考えて、どちらでもいいな、と結論が出た。
二人がネストルの横を通る時、ネストルが「義姉上」と呼び止めた。エリオスもルイーズも足を止める。
「思った以上に体が鈍っていました。空いている時間で構いません。剣の稽古に付き合ってください」
「でしたら明日の朝はどうでしょう?」
ルイーズの言葉にネストルが頷いた。なんだか変な感じがする。思えば他の人と話をするネストルはあまり見たことがない。特に女の人と喋るところなんてタリア以外初めてだ。
きゅう、と胸が締め付けられるような感覚があり、ラフィーナは目を丸くした。今のはなんだろう。
「目の前で逢い引きの相談をするとは……妬けるね。ねえ、ラフィーナ?」
エリオスが笑いを含んだ声で言った。やける……焼ける……? この胸の感覚がそれなのだろうか。別に熱くはないけれど。でも少し苦しい。ラフィーナが口を開く前にネストルがため息をついた。
「くだらないことを言っていないで早く行ってください」
「ははは、失礼するよ」
笑いながら出て行くエリオスとルイーズ。扉が閉まって、もう一度ネストルのため息が落ちた。
「あ、あの……」
何か言わないといけない。せっかく来てもらったのに用事がないなんて言えない。忙しいネストルが時間を割いて来てくれたのだから。しかし何も思い浮かばない。
「あ、あの、わたくし……」
何か、何か……用事もないのに呼んだなんて知られたら鈴を返せと言われるかもしれない。何か……
「わたくし街へ行きたいわ」
絞り出した言葉にラフィーナは自分の失敗を悟った。街へ行くなら時間がかかる。ネストルを長く拘束してしまう。ネストルのひそめた眉と、全てを見透かしたようなクレイトスの笑み。
やっぱりいい、と訂正しようと口を開いたが、それが声になる前にネストルが踵を返した。
「早く準備をしろ」
扉を開けて出て行く背中。準備をしろと言われた。でもネストルはどこかへ行ってしまった。どういうことか理解ができなくて残ったクレイトスを見る。
「ラフィーナ様が身支度を整えるまで外で待たれるようです」
「あ、そういうことなのね……」
それなら、とラフィーナは靴下と靴を取り出した。クレイトスがこちらへ背中を向けた。
「……迷惑ではないかしら」
嘘をついてしまった罪悪感が胸を締め付ける。ネストルの時間を余計に奪ってしまったことも。
「嫌なら嫌だとおっしゃる方です。謝ると怒られてしまいますよ」
「そう、かもしれないわ」
前にそんなことを言われた記憶がある気がする。謝っては駄目なら後でお礼を言おう、と心に決めた時、クレイトスが柔らかな声で言った。
「用事がなくとも一緒にいたいのだ、と正直に言えば拒む方ではありませんよ」
「……本当? 面倒だから鈴を返せと言われない?」
靴下を脚に滑らせながら小さな声で問うと、クレイトスはくすくすと笑った。
「短気で素直でない方ですが、あの方がラフィーナ様を拒むことはございませんよ。ご安心ください」
実際、ネストルは嫌な顔をしてもラフィーナを拒んだことはない。ラフィーナもそれには気が付いている。だけど昨日まではよくても今日が駄目な可能性もある。ネストルが何を考えているのか、ラフィーナには分からないから。
「そうだったらいいけれど……」
小さな呟きはラフィーナが思っていた以上に揺れ、ぬるい空気の中へと溶けていった。




