68.心の輪郭
部屋の中に微妙な空気が流れた。ルイーズの先ほどの泣きそうな顔はすっかりなくなって、穏やかな表情でお茶を飲んでいる。ラフィーナも不思議に思いながらもカップに口をつける。
何がおかしいわけではない。だけど何かがおかしい。強いて言えばイリスとクレイトスが。強張った表情の二人は何か考えているのか、ラフィーナの視線にも気付かない。
誰も話さない空間で、ラフィーナはなんとも言えない居心地の悪さを感じていた。静かな空間は嫌いじゃない。誰かと一緒にいても喋らないことなんて珍しくない。むしろネストルと一緒に馬車に乗った時、一言も喋らないこともあるくらいだ。それなのにこんな微妙な空気は感じたことがない。こんな感情は初めてだ。
救いはすぐに現れた。ゆったりとした足音が近付いて来たのだ。ラフィーナは思わずホッとした。しかしエリオスが入って来た時、イリスとクレイトスの表情は更に強張ったように見えた。
『待たせたね』
エリオスが微笑み、ルイーズも微笑む。
『いいえ、有意義な時間でしたよ。ねえ、ラフィーナ様』
自分に同意を求めるその目が鋭く、言ってはいけない、と言っているように見えた。ラフィーナも口元に笑みを浮かべて頷く。よく分からない。
……考えても分からないことはネストルに聞けばいい。思考を放棄した。
『いきなりすまないね。君と少し話したくて来たんだ』
『嬉しいわ。わたくしもエリオス様とお話ししたかったの。最近はあまりお会いできなかったから』
『忙しくてね』とエリオスは言う。それでタリアも来ないのか。そう口にするとエリオスはふふ、と笑った。
『タリアはまだ謹慎中だからね。ネストルも実は昨日まで謹慎していたんだ』
『きんしん……』
知らない言葉。
『罰として部屋から出られないことだよ』
なるほど。じゃあ自分のこれも罰なのか。言いつけを守らずに外に出たから。クレイトスのため息が聞こえた。その顔はもう強張っていなかった。
『ネストル様がお怒りになりますよ』
『はは、あいつが悪いよ』
エリオスは可笑しそうに笑う。ラフィーナは首を傾げた。
『ネストル様は何か悪いことをしたの?』
『うん、悪いことをしたんだ』
だけどね、とエリオスは続けた。柔らかな声だった。
『あいつが間違っていたとは僕は思わないよ』
悪いことなのに間違いではない? よく分からない。きょとんとするラフィーナにエリオスは微笑む。
『正しさは人によって変わる。あいつにとってはそれが正しいことだったんだ』
ネストルも前に同じようなことを言っていた気がするが、いまいち意味を掴みきれない。エリオスは微笑みを浮かべたまま言う。
『大切なものを守る為には手段を選べない時があり、あいつには悪事を働いてでも守りたいものがある、という話だよ』
『そうなの?』と問うと、エリオスは『そうなんだ』と頷いた。
『ラフィーナ、きっと君にもいつか分かるよ』
ラフィーナにはエリオスの言葉の表面が分かるだけで真意は分からない。だけどエリオスがそう言うのならそうなんだろうな、と思った。
エリオスの前にイリスがお茶を置いた。ありがとう、と微笑んだエリオスは一口飲んで、柔らかな眼差しでラフィーナを見る。
『ここの暮らしはどうだい?』
『どう……?』
どうと聞かれてもなんと言えばいいか分からない。離宮の生活にはなかったもので溢れている。良いことも悪いことも。エリオスはそういうことを聞きたいのだろうか。困っているラフィーナを見てエリオスは『聞き方を変えよう』と言った。
『今ここに君のお父上が来て、迎えに来たから帰ろう、と言ったとする。君はどうする?』
『お父様が迎えに……』
思わず笑みがこぼれた。父の迎えをいつも待っていて、あの離宮に帰る日を夢見た。何度も何度も繰り返し。それは今も変わらない。だけど……不意に心に影がさし、浮かべた笑みが消えた。
父は迎えに来ると言った。だから自分は帰るものだと信じて疑わなかった。少し前までは。エリオスとルイーズ、クレイトスにそれからイリス。4人の視線を受けながら、ラフィーナは口を開いた。
『……分からないわ』
この胸の感情はなんと表せばいいのだろう。この心はどう言葉にすればいいだろう。
「……そう、正しさだとネストル様は言ったわ」
少し考えて、言葉の欠片を見つけた。口から出たのは帝国語ではなく王国語だった。言葉にして気が付いたが、エリオスは何も言わないので、ラフィーナはそのまま続ける。
「お父様の正しさはわたくしが離宮にいることで、ネストル様の正しさはわたくしをここへ連れて来ることだった、と」
誰も口を挟まない。エリオスが一度頷いた。先を促すように。
「お父様はわたくしの……」
なんと言うのだったか。視線が彷徨う。どこにも書いていない言葉を探して。誰も何も言わない。ラフィーナは自力でそれに辿り着いた。
「わたくしの……世界の全てで、」
そう、それだ。口にして思ったよりも心になじんだ。
「お父様が間違っているなんて思ったことがなかったわ。わたくしがあの離宮にいることは当たり前で、それが一番幸せなことだと思っていたの。……お父様がそう言ったから」
そもそもラフィーナの心に疑念などなかったし、あったとしてもそれを父に向けるなどあり得ないことだった。ポツポツと語るラフィーナの小さな声だけが空気を震わせる。
「でも、それはわたくしの意思ではないとネストル様は言ったの。わたくしの言葉も心もお父様やお兄様のものではなく、わたくしのものだと言ったの」
そんなことを言われたのは初めてだった。ネストルは怖い。言葉が真っ直ぐで、真っ直ぐすぎるが故に鋭利で。だけどその真っ直ぐな言葉に胸を刺され、心が震えた。
「わたくしはまだ分からないことばかりで、どうしたいのかも分からないわ」
エリオスの真剣な顔が見えた。珍しく笑みが浮かんでいない。その目に映る自分の輪郭をなぞる。この答えで合っているのだろうか。少し不安になったが、ラフィーナは自分の心を表す言葉を見つけたかった。もう少しで何か大切なものにたどり着けそうだと思った。
「だけどわたくしはネストル様のお側にいたいの。お父様と共に帰ることで会えなくなるのなら、わたくしは……」
どうしようと言うのだろう。ネストルと会えなくなったら自分はどうする? 父の手を取らないのだろうか。分からない。切れた言葉の先を探してみたが見つからなかった。
全てを疑えとネストルが言った。知って、疑って、考えて、自分の心に残ったものだけを信じろ、と。
「……ネストル様の言葉を信じたい。だからお父様が何を考えているのか聞きたいし、わたくしがあの離宮から出てはいけなかった理由を知りたいわ」
色々なことを知った。だから次は疑う番。父を疑い、ネストルを疑い、エリオスを疑い……そして最後に心に残るもの。それはネストルであって欲しいと思っている。それがラフィーナの心。
真っ直ぐにエリオスを見て、ラフィーナははっきりと言った。沈黙。ハッとした。必死だったから変なことを言ったかもしれない。
「ご期待に添えたかしら……?」
恐る恐る尋ねると、エリオスはゆっくりと笑みを浮かべた。柔らかく穏やかで、だけど最高の笑顔。
「期待以上だよ」
エリオスはそう言った。




