66.花一つ
クレイトスは少しすると笑うのをやめて立ち上がり、
「誰か侍女を起こしましょうか」
思案するようにそう呟いた。自分がどのくらい寝ていたのかは分からないけどもう遅い時間なのだろう。
「わざわざ起こすなんてだめよ。わたくしはクレイトスでも気にならないわ」
慌てて言った。ちょっと不思議に思っただけで別に嫌というわけではない。見られても触られても。クレイトスの手は優しいから。
ため息が聞こえ、そちらに視線を向けると呆れた顔のネストルがいた。
「お前は俺の言ったことを忘れたのか」
ネストルの言ったこと。どれのことだろう。少し記憶を探ってそれらしいものに辿り着く。
「お兄様と同じことをしてもいい人にしか見せてはいけない、というものかしら?」
正解だったようでネストルは頷く。
「いいのか?」
ネストルが視線でクレイトスを指す。ラフィーナもクレイトスの顔を見上げた。クレイトスにあれを……。少し考えて首を傾げた。
「よく分からないわ」
兄とクレイトス。似ても似つかない。だからだろうか。想像がつかない。そう言うとクレイトスは「それでいいのです」と笑みを浮かべた。
「侍女を起こしましょう」
ここには私とネストル様しかいませんからね、とクレイトスは言った。それなら、と言葉が口からこぼれた。
「ネストル様がいいわ」
クレイトスとネストルの動きが不自然に止まる。すぐに深いため息が聞こえた。ネストルだった。
「お前は何を聞いていた。何故そうなる」
また呆れた顔。何かおかしいことを言ったかしら、と考える。あまり深く考えずに出た言葉ではあったが、それが本心であることは変わりない。
「ネストル様は少し怖いけれど、優しいことも知っているわ。何をされても嫌じゃないの」
二人の目が大きく見開かれた。口元は強張っている。変な顔だわ、と思いながらもラフィーナは笑みを浮かべたまま続けた。
「それだったら侍女も起こさなくていいわ。寝ているところを起こされるのはとても辛いもの」
すごく体が重たくて動きたくない気分になる。ラフィーナもよく知った感覚だ。夜更かしをした次の日の朝など、イリスに起こされることがあるから。
沈黙が降りた。二人とも立ち尽くしたまま動かない。首を傾げた時、ネストルが再び深いため息をついた。そのまま歩いてラフィーナの前に立つ。もう一度ため息。
「……お前に触れていい男は俺だけだ。覚えておけ」
怒りや苛立ちを含んだような声。だけどどこか優しくも聞こえた。
「……? ええ」
頷くと、ネストルがラフィーナの前に座り、少し冷たい手が足に触れた。この足では数日間は靴を履くことはできない。外に出られない。少し残念に思った。そしてそんな自分に驚いた。
部屋の中で過ごすのにはなんの不便もない。部屋にこもっていたこの10日間も全く困ったことはなかった。わざわざ外に出る理由もない。むしろ部屋の中の方が心穏やかで快適なはず。それなのに……。
足に触れる手は優しくて、でもクレイトスよりは少し力が強くて、ラフィーナは下を向くネストルの銀の髪をぼんやりと眺めた。
……ああ、会えなかったのだ。部屋にいたら一度も。外に出る理由は一つだけ。ネストルに会うため。
自分が部屋にいた間、ネストルは何をしていたのだろう。この静かな部屋で一人仕事をしていたのだろうか。
「このお部屋は寂しいわ」
ポツリとこぼれた言葉にネストルが顔を上げた。無表情。目が合う。だがネストルはすぐにまた下を向いた。少しの間沈黙が降り、それはネストルが立ち上がることで破れた。
「花は一つでいい」
自分の足にはきっちりと包帯が巻かれている。少し動かすと締め付けを感じるが決して痛くはない力加減。ネストルがこんなにも器用だと知らなかった。
「お花はいつも一つしか渡していないわ」
何度目だろう。またこの言葉。一つでいいと言われた時からクレイトスにことづける花は一つだけにしている。言葉通りの意味でないことはなんとなく分かるが、だからといってどんな意味なのかは分からない。
座ったまま見上げるとネストルは「そうだな」と顔を背けた。やはり違ったようだ。いつもは全く飾らない冷たい言葉。なのに時折こうして抽象的になる。そんな時ネストルはそれ以上に言葉を重ねない。まるで伝わって欲しくないとでも言うように。
こちらへ向いた背を見る。ふとクレイトスが笑みを浮かべていることに気が付いた。クレイトスにはこの意味が分かるのだろうか。目が合い、クレイトスは柔らかな笑顔をラフィーナへ向けた。
「ネストル様は」
「おい」
ネストルが振り返って鋭く遮った。しかめた顔がその感情を物語っている。しかしクレイトスは言葉を止めなかった。
「美しいものは一つでいい、とおっしゃっているのです」
美しいものは一つ。花ではなく美しいもの? この部屋に?
部屋の中に視線を巡らせる。無駄なものは一切ない部屋。もちろん装飾品など一つもない。ネストルが眉間に皺を寄せ、顔を背けている。その横顔。ああ、と思った。
「ネストル様のことね」
意識せず言葉が出た。その瞬間、まるで時が止まったのかと思った。二人が固まったから。全く同じタイミングで。
どうしたのだろう、と思いながらその顔を眺める。
銀色の髪。氷のように冷たい顔。薄い色の瞳に結ばれた唇。静かな声。こういうのを美しいの言うのだ。人の美醜なんてよく分からなかったけど、今日ネストルを見て理解した。
深いため息。ネストルかと思ったがどうやらクレイトスだったようだ。片手を額に当て、下を向いて首を振る。呆れているのだろうか。
ネストルはそんなクレイトスの隣で苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「……分からぬならそれでいい。そろそろ部屋に戻れ。もう夜も遅い」
はい、と返事をして立ち上がる。包帯で覆われた足が少しだけ痛んだ。テーブルの上で何かが転がるのが視界の端に見えた。
「あ、」
忘れていた。鈴をもらったのだった。頬が緩む。それを指先で摘み上げると、あっちとこっちで軽い音がした。クレイトスが「おや」と意外そうにネストルを見やり、ネストルが視線を逸らした。
「……目の届くところにいた方がマシだ」
まるで言い訳のように付け加えられた言葉。クレイトスは「まだ何も言っていませんよ」と可笑しそうに笑い、ネストルの机の上に置かれたケースの蓋を開け、ラフィーナへと差し出した。窪みが二つ。片方にそっと置いた。
蓋を閉めたそれを受け取り、おやすみなさい、と挨拶をすればネストルは小さく頷きを返してくれた。もう灯りの落ちた廊下を歩く。空には大きな月が輝いており、冷たく柔らかな光を放っていた。
部屋の扉の前にはゼノンが立っていた。パーティー会場を出た時にいなかった彼は一体どこにいたのだろう。クレイトスが足を止める。
『ネストル様からご伝言です。つまらん貴族の戯言に振り回されるな、と』
『はっ……! 申し訳ありませんでした!』
クレイトスの声は穏やかで柔らかい。だけどその言葉からネストルの冷ややかさが伝わって来た。ゼノンもそれを感じたのか、強張った声だった。
部屋の中へ入る。すぐに真っ暗な部屋に灯りがついた。クレイトスが何かをしたのだろう。でも離宮で使っていたような蝋燭はこの部屋にはない。これもきっと魔法。世の中の不可思議なことは全部魔法だとラフィーナは学んでいる。
「着替えが必要ですね。やはり侍女を起こすしかないようです」
独り言のようなクレイトスの言葉。そんな必要はない。離宮にいた頃は着替えなんて一人でしていた。ドレスだって着ることは難しくても脱ぐだけならできる。
「背中の留め金だけ外してもらえたら一人でできるわ。それとお顔を洗いたいからお水ももらえるかしら?」
ラフィーナの言葉にクレイトスは困ったように微笑んだ。しかし小さなため息の後「かしこまりました」とラフィーナの背中に触れる。
されるがままになる。留め金が外れるたびに締め付けが緩み、別に苦しかったわけではないが、それでも大きく息ができるようになった。
「お腹は空いていませんか? 何か食事をお持ちしましょうか?」
言われて食事を摂っていないことに気が付いた。ドレスに着替える前に少しだけ食べたのが最後で、もうずっと前のことだ。でも不思議とお腹は空いていない。首を振ると、後ろから「そうですか」と柔らかな声が返ってきた。
「先ほどのお話ですが」
「ええ……?」
急な話題の転換。それが何を指すのか考える。首を傾げると肩にかけていた髪が背中へとながれた。
「ネストル様の言う美しいものとはラフィーナ様のことですよ」
「え……?」
思わぬ言葉に首を回して後ろを見ると、クレイトスの笑顔があった。
「はい、できました。水もすぐに準備します。ゼノンに持って来させますね」
ゆっくりおやすみください、とクレイトスは口を挟む隙を与えずに部屋を出て行った。ラフィーナは閉じた扉を呆然と見ることしかできなかった。




