65.軽口
意識が浮上した。足の痛みとくすぐったさ、紙の音。どれがラフィーナの意識を呼んだのか。
まず初めに見えたのは足元で俯くクレイトス。それから本をめくる長い指、組んだ足。薄く目を開けたまま、ここはどこだったかしら、と考える。
「起きたか」
近くで聞こえた声にクレイトスが顔を上げた。にこりと微笑んだクレイトスは再び俯く。足の手当てをしてくれているようだ。触れる手が優しい。ぼんやりとしたままの頭でそんなことを思った。
「おい、まだ寝るのか」
再び聞こえた声に顔を上へと向ける。頬に布の擦れる感触があった。銀色の髪、鋭い双眸。薄い色の瞳がじっとラフィーナを見ている。この色はなんて言うのだったかしら、と思いながら再び目を閉じーーラフィーナはパッと体を離した。
「え……?」
一気に頭が覚醒した。そうだ、ここはネストルの執務室。すぐに分からなかったのは、目に入る光景がいつもと違ったから。まるでこの場所を隠すかのように扉との間に衝立が置いてある。
「わ、わたくし、寝てしまったの……?」
「お疲れだったのでしょう」
疲れた? ……そう、そうかもしれない。ここがどこか分からなくなるくらい深く寝入っていた。隣に座るネストルは膝の上の本に視線を落としている。ずっとここにいてくれたのだろうか。左側に残る体温が身体中を巡るようにじんわりと広がった。
「もう大丈夫なの?」
小さな声で尋ねる。顔色はいつもと同じに見える。
「見ての通りだ」
本に目を落としたままネストルは言った。声もいつもの冷たさを取り戻しているし、さっきのように変な言動もない。ほっと息をついた。
「よかった。本当に変になってしまったのかと思ったわ」
「変だったのですか?」
クレイトスが顔を上げる。ラフィーナがええ、と頷いた時、それを掻き消すようにパタン、と本を閉じる音がした。
「余計なことを言うな。お前は黙って手を動かせ」
不機嫌をあらわに立ち上がったネストル。言ってはいけなかったのかしら、と首を傾げるとクレイトスはくすくすと可笑しそうに笑った。
「黙れ」
冷たい声が重なる。しかしクレイトスは笑うのをやめない。手を止めて下を向いて笑い続けている。ネストルはこれ以上言っても無駄だと思ったのか、舌打ちをして自らの椅子へと座った。
クレイトスはひとしきり笑うと、「ところで」とラフィーナを見た。
「イリス殿は問題ないそうです。ですが、大事をとって本日は医師のもとで過ごしていただくことになりました」
「本当? よかったわ」
ラフィーナはほっと息をついた。イリスもネストルもなんともなくて本当に良かった。しかし二人とも自分のせいで危険な目に遭ったのだと思うと、心がズンと重くなった。
もっとしっかりしないといけない。そうでなければ自分が皆を危険へと導いてしまう。膝の上で手を握ると手のひらに爪が刺さり、鈍い痛みがあった。
「ラフィーナ様のせいではありませんよ」
聞こえた声に少し視線を動かす。クレイトスが微笑んでいた。
「ネストル様もイリス殿も、ラフィーナ様を守る為に進んで行ったことです。ラフィーナ様がそのようなお顔をなさってはお二人が悲しんでしまいます」
どんな顔をしていたのかしら、と頬に触れてみたが分からない。意識して笑みを浮かべた。クレイトスはラフィーナの足へと視線を落とす。
クレイトスは優しい。優しいからそう言う。ネストルもイリスも優しいから。だから自分のせいで危ない目に遭ってしまった。……強くなるにはどうすればいいのだろうか。分からない。
「……しかし、あの短時間でこれですか。何か考えなければなりませんね」
ポツリとクレイトスが言った。それが自分の足のことだと分かったのは、クレイトスの手が傷に触れて痛みが走ったからだった。痛みに顔をしかめる。クレイトスは「すみません」と小さく謝った。
足に触れる大きな手。ふと思った。
「男の人に肌を晒してはいけないのよね? クレイトスはいいの?」
別に気にはならない。見られたところで何があるわけでもないから。厳しく言うのはいつもクレイトスだ。そのクレイトスが自分の足の手当てをしている。少し上げたドレスからはしっかりと足が見えているだろう。それとも見るのはいけないけど触れるのはいいのだろうか。
首を傾げるとクレイトスは顔を上げて微笑んだ。
「私は従者ですから。従者は同じ人間だと思わなくて結構です」
「従者は人間だと思わない……?」
言われた言葉を口の中で呟く。分からない。
クレイトスは人間じゃない? じっと見る。自分と同じように顔があり、体があり、手があり、足がある。同じ言葉を話す。どう考えても人間だ。
「よく分からないわ。クレイトスも人間でしょう?」
首を傾げたラフィーナに返事をしたのはクレイトスではなかった。「そうだな」とくつくつと笑う声。
「クレイトスも人間だ。貴族も従者も平民も、皆人間だ。意思があり、肉体があり、手を伸ばせば触れられる。劣情を催せば身分なんて関係ない。お前の言う通りだ」
「ネストル様……」
笑うネストルを呼ぶクレイトスの声は、呆れたようなため息混じりだった。しかしラフィーナは困惑した。ネストルはまたおかしくなってしまったのだろうか。まだ毒が残っているのかもしれない。唇の端を吊り上げて笑うネストル。少しいつも通りのようにも見えるが……。
「クレイトス、一本取られたな」
「よほど毒が美味しかったようで」
クレイトスはそう言ってため息をついた。毒が美味しい? そんなわけないじゃない、と思う。人を殺すようなものが美味しいなんて……。
「ご機嫌ですね」
「ご機嫌? おかしくなったのではなくて?」
ネストルの笑顔があまりにもらしくなく、ラフィーナには恐怖でもあったのだが、クレイトスには機嫌がいいように見えるのだろうか。ラフィーナの言葉が率直だったからか、
「ふっ……お、おかしく……ふふ」
クレイトスは顔を背け、手で口元を隠すようにして笑い出した。よほど面白いのだろうか。こんなクレイトスは初めて見た。
「おい、笑いすぎだ。あまり笑うなら追い出すぞ」
ネストルが深いため息をついて立ち上がる。
「し、失礼……」
クレイトスはやはり笑いながらそう言った。
「何がそんなにも面白いの?」
首を傾げると「つまらんことだ」とネストルが答えた。やっぱり二人は仲がいい。知ってはいたが、こんなふうに軽口を叩くところを見るのは初めてだ。二人の関係性を見ることが許されたようでなんだか嬉しい。
ラフィーナもふふっと笑った。




