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64.うたた寝

 クレイトスと視線は合わない。クレイトスの目はどちらかと言うと寝ているネストルに向いているようだが、ラフィーナは熱い頬を隠すこともなく、まるで自らの潔白を証明するかのように両手を上げたまま固まっていた。


 少ししてクレイトスが、ハッとしたように動いた。体を部屋の中へと滑り込ませ、扉を閉める。ラフィーナもハッとして手を下ろした。クレイトスが来たら起こすように言われていたのだった。


 下を向くとラフィーナの髪がネストルの頬をくすぐったのか、ネストルが鬱陶しそうに手で髪を払い、その目がゆっくりと開いた。薄い双眸がクレイトスに向き、一瞬ののち、ネストルは顔をしかめた。舌打ちをしながら起き上がったネストルは何事もなかったかのように立ち上がる。


 膝にあった心地よい重みがなくなり、ほんの少しだけ胸の内に風が吹いた。ラフィーナは熱い顔と速い心臓を誤魔化すように視線を彷徨わせる。


 ネストルがクレイトスへ手を差し出した。



「解毒剤を出せ。軽いやつでいい」


「毒ですか?」



 クレイトスは手に持っていたお盆をネストルの机に置き、どこからか小瓶を出した。それを呷るネストルは、先ほどよりは顔色が良くなっているように見える。寝たことで少し回復したのだろうか。



「死ぬほどではない」



 素っ気なく言ったネストルはいつもの椅子へと座る。もうすっかりいつも通りな様子に胸を撫で下ろした。ネストルはそのくらいが丁度いい。冷たくても素っ気なくても、さっきみたいに笑うよりマシだ。だって本当におかしくなって死んでしまうのかと思ったから。



「パーティーを中座したと聞いたので食事を持って来ましたが、食べられますか?」



 クレイトスが机の上に置いたお盆。ネストルはそれを見る素振りも見せずに唇の端を上げた。



「今食ったら吐くが、いいか?」


「掃除ならして差し上げますよ」



 クレイトスがにこりと笑う。二人の会話をぼんやりと聞きながら自分の手を見つめる。



「ほざけ」



 少し硬くて、ツルツルで……ネストルの髪の感触がまだ残っている手で、胸に垂れた自分の髪を触る。細くて柔らかい。全然違う。同じのは色だけ。



「ところで毒を飲んだ後すぐに吐かなかったのですか? その為に中座したのでは?」


「そのつもりだったが面倒ごとに直面してな。やむなく」



 視線を上げるとネストルの銀色が見えた。レガルディア皇家の色だと皆が言う。だけどラフィーナにとっては違う。ネストルの色だ。冷たく美しく、自分とネストルを繋いでくれる色。



「若いやつだ。名前は分からぬ。見つけ出したら身分を剥奪して皇都から放り出しておけ」


「先ほどの女性と言い、最近少々多いのでは? よろしいのですか?」


「いなくとも何の問題もない者ばかりだ」



 背もたれに体を預けていると眠気が襲ってきた。それに、とネストルは言葉を重ねる。



「人間として最低限のものも持っていないようなやつを貴族にしておく理由もない」


「あなたがそれを言いますか」



 クレイトスが苦笑する。二人はすごく仲がいいのね、と思いながら目を閉じる。途切れることのない会話。内容なんてほとんど聞いていない。でも2人の声や表情がとてもリラックスしたものだから。少し羨ましく感じた。自分もあんな風にネストルやクレイトスと話ができるようになりたい。



「ネストル様の寝顔なんて久しぶりに見ましたよ。よほどくつろげたようですね」



 揶揄うような、笑いを含んだ響きの声。それから舌打ち。ふわふわする意識の中でそれを聞いた。クレイトスのくすくすと笑う声が聞こえる。ネストルは今どんな顔をしているのだろう。それはそれはきっとすごく嫌そうな顔なんだろうな、と思う。目を開けて見てみたい気はしたが、重い瞼は上がらなかった。



「おや、お次はネストル様が肩を貸してあげる番のようですよ」



 いいえ、一人で寝られるわ。そう思ってもそれを口に出すことはできなかった。体が重くて閉じた目はもう開かない。



「……お前は早くあの侍女の様子を見に行って来い」



 ネストルの鬱陶しそうな声に「はいはい」と笑う声が返事をする。次いで扉の開閉する音。微睡の中、意識がなくなる寸前だった。足音もなく急にソファが揺れ、体が傾いた。しかし倒れる前に何かに支えられる。頬に触れる硬い布の感触。


 もう働かない頭では何が起こったのか分からなくて、薄く目を開けると煌めく銀色が見えた気がした。これはどちらのものだろう。


 ねすとるさま、と声に出たのかは自分でも分からない。無理やり開いた目が何かに覆われた。少し冷たい何か。



「眠いなら寝ていろ」



 静かな声。近距離で聞こえたそれに、目を覆う冷たいものがネストルの手だと気が付いた。


 体調はもう大丈夫なのだろうか。起きた時にネストルは近くにいるのだろうか。イリスはどうなっているのだろうか。ネストルは自分の代わりに毒を飲んだのだろうか。イリスは、ネストルは本当にいなくならないのか。


 聞きたくて、ネストルの顔を確かめたくて、だけど瞼はピクリと動くだけで持ち上がらない。



「何も気にする必要はない。お前の憂いは俺が全て払う」



 ふっと心が軽くなる。淡々とした言葉。特別な優しさも柔らかさもない。だけどこの声は信用できることを知っている。ネストルがそう言うのならそうなるのだと。


 体から力が抜けるのが分かった。揺蕩う意識が薄れていく。頬に感じる硬い布の感触とあたたかさ。覚えず頬が緩み、そして意識を手放した。

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