63.冗談
反射的に離した自分の手を見る。ネストルの不自然なほどの冷たさが残っている。
「い、生きてる……?」
死んだら冷たくなるのだとイリスが言っていた。恐る恐る手を伸ばしてもう一度手を握る。こんなにも冷たいなんて、本当はもう生きていないんじゃないか。本気でそう思った。
自分の顔が強張っているのが分かる。ネストルは何が可笑しかったのか、くつくつと笑う。
「死体は嫌になるほど見てきたが、今のところ動く死体は見たことがないな」
ネストルが初めてちゃんと笑った。笑ったらどんな感じなのだろうとずっと思っていた。だけどそんなことを喜べるような状況ではなかった。
とても生きているとは言えないような色の顔をしたまま、可笑しそうに笑うネストル。見ていると涙が込み上げた。視界がぼやける。
笑うところを見ることができて嬉しいはずなのに、それすらも異常に感じてしまう。いつもと違うことに対する、異常なほどの恐怖が胸に渦巻いている。
「わ、わらわないで」
震える声でそう言うと、ネストルは笑い止め、座ったままラフィーナを見上げた。真っ直ぐな目がラフィーナを射抜き、だがいつものような鋭さがないことにまた心がざわめいた。ドクドクとうるさい心臓に耳を塞ぎたくなる。
「泣くな」
ネストルは立ち上がり、ソファへと歩く。握っていた氷のような手は呆気なく離れた。体調が悪いはずなのによろけもしない足取り。
「お前が泣いても俺は慰めてやれぬ」
ポツリと落とされた言葉はどこか悲しそうに聞こえた。
涙がこぼれた。瞬きをすればさらにこぼれ、止まらない。ネストルは体を投げ出すようにソファへと座ると、立ったまま涙をこぼすラフィーナを見て小さく息を吐いた。
「……来い」
小さな声に導かれ、ラフィーナはネストルの隣に座る。ネストルはごろんとラフィーナの膝に頭を乗せて寝転がった。
予想外の行動に驚いて言葉を失った。
「ここにいるなら枕くらいにはなれ」
驚きのあまり、目を見開くと溜まっていた涙がネストルの頬にひとつ落ちた。向こうを向いた横顔が呆れたようにため息をついた。
「お前、重力って知っているか」
急に何を言い出したのだろう。意図がつかめずに黙っていると、ネストルは気にした様子なく続けた。
「物体は上から下に落ちる。それが重力だ」
「知っているわ……」
か細い声しか出なかった。
「……お前が泣くと下にいる俺に涙が落ちる。泣くな」
「ごめんなさい」
目に溜まった涙を指で掬う。ネストルは目だけでラフィーナを見ると舌打ちをした。
「この俺が冗談を言って場を和ませようとしたんだ。笑えよ」
冗談? 何が? 重力云々の話だろうか。分からない。分からないし、笑えない。
「……らしくないわ」
ポツリと呟くとネストルは「そうだな」とものすごく嫌そうに顔をしかめた。
「確かにらしくない。毒が頭にまでまわっておかしくなっているのかもしれん」
「毒……?」
今ネストルは毒と言った? この不調は毒によるもの? いつ飲んだの? まさかあのパーティーの時のお酒に……? いや、それよりも毒は飲んだら死ぬのでは?
頭の中でたくさんの問いがまわる。
「し、死ぬの……?」
自分の口から出た言葉に、ぞわりと何かが背を這った。ネストルはくつくつと笑う。
「死ぬかもしれん。自分でも変なのがよく分かる」
これも冗談なのだろうか。それとも本気だろうか。笑いながら言うネストルに恐怖と苛立ちを覚えた。
「笑わないで! 嫌よ、ネストル様がいなくなるなんて嫌。死なないで」
思ったよりも大きな声が出た。ネストルが笑うのをやめて寝返りを打つ。仰向けになったネストルは少しだけ鋭さを取り戻した目でラフィーナを見た。
「……死なぬ。お前がそう言うのなら」
それはちゃんとネストルらしい声で、少しだけ安堵した。ネストルがまた向こうを向く。小さな舌打ちと「ドレスが邪魔だな」と文句が聞こえた。よかった、本当におかしくなってしまったわけではないようだ。
「少し寝る。クレイトスが来たら起こせ」
「ええ……」
目を閉じた綺麗な横顔。しかし顔色は悪いまま。
「……あの、本当に死なない?」
しつこいと分かっていても聞かずにはいられなかった。
「この程度の毒ではな」
ネストルが目を閉じたまま答えた。そのまま少しすると膝の上のネストルの頭が微かに重みを増した。寝たのだろうか。こんなに早く寝るなんてよほど辛かったのだろうか。
規則正しい呼吸音。額に浮いた汗をドレスのできるだけ柔らかい布の部分で吸収すると、ネストルが微かに眉をひそめた。酷い顔色だけどちゃんと生きている。
はあぁ、と深い息が漏れた。うるさかった心臓は段々と落ち着きを取り戻し、込み上げていた涙もすっかり止まった。こうしてネストルの呼吸を感じることができる内は大丈夫。
視線を落とすと、灯りを反射して煌めく銀髪が見えた。少し迷い、指先で触れた。腕を動かすと下を向いた自分の髪も肩からこぼれ、同じ色が溶け合った。指先から指へ、指から手へ。ネストルが目を開けないのをいいことに、どんどん遠慮がなくなっていく。
髪を撫でると、指の間をさらさらの髪が通った。ツルツルでまっすぐな髪。自分の波打ったものとは違う。
この髪に触れてみたかった。自分と同じ色に。それが今こうして手の中にあるなんて……夢心地とはこういうことを言うのだろうか。ぼんやりとネストルの整った横顔を見ながら、ゆっくりと手を動かして髪を撫でる。時間も世界も全てが頭から消えていた。
途端、扉の開く音が聞こえ、ビクリと体が跳ねた。
「え……?」
困惑するような声に顔を上げると、クレイトスが扉を開けたままの格好で固まっていた。ラフィーナもぱっと両手を上げ、固まる。別に悪いことをしていたわけではないのだが、罪悪感と羞恥心に襲われた。一気に顔が熱くなる。
クレイトスの持つお盆には皿が乗っており、湯気を立てるそれからはいい匂いがしていた。




