62.鈴
いつの間にここまで来たのだろう。驚いて立っていると、ネストルはラフィーナの横をすり抜け、無造作に剣を外して机の上へ置いた。ゴト、と重い音がする。
「どうすればお城の中を迷わずに歩けるの?」
ラフィーナは首を傾げる。ネストルはいつもの椅子へ腰掛けて深く息を吐いた。
「自分の家で迷う奴はいない」
なんだか求めていたものと違う答えが返ってきた。自分の家でもこんなにも大きかったら迷う人はいるだろう。少なくとも自分だったら迷う。
「同じ扉ばかりで全然分からないわ。何か見て分かるものはないの? ……そう、地図とか!」
名案だ。この国の地図を見せてもらったことがある。あれはとても便利だと思う。城の中の地図があればきっと部屋からここまで迷わず来ることができる。
「ないことはないが出すことはできぬ。他の人間の手に渡れば悪用される」
ネストルは静かに言った。ああ、そうか、わざと迷いやすい造りになっているのか。そう納得した。それなら仕方ない。これまでも迷いながらでも最終的にはここに辿り着いているのだ。これからもどうにかなるだろう。
邪魔なスカートを手で適当に避けてソファへと座ると同時に、何かが膝の上へと飛んできた。チリン、と音を立てて転がったそれはスカートの布の中へと埋もれる。その辺りを手で探ると、金属の感触が手に触れた。
「これはなあに?」
小さな丸いものに短い紐がついている。紐をつまんで持ち上げると、チリン、とまた軽い音が鳴った。同時にもうひとつ別の場所で同じ音が聞こえる。そちらには同じものを持つネストルがいた。
「鈴だ」
「すず……」
もう一度振ってみるとやはり小さな可愛らしい音が鳴る。そしてネストルの手の中からも同じ音がする。ネストルは振っていないのに。
「それが鳴ればこれも鳴る。ここへ来たくなった時は鳴らせ。迎えに行く」
ネストルが机の上に鈴を置く。それと自分の手の中の鈴を見比べて、今言われたことを反芻した。
「ここへ来たくなった時……」
鳴らしたら、迎えに来てくれる?
覚えず笑みが浮かんだ。飛び跳ねたい気分。この気持ちはなんて言葉で表せるのだろう。嬉しい、なんて言葉では足りない。
「ありがとう」
緩んだままの顔をネストルに向けた。だがネストルは目だけでラフィーナを見るのみ。返事がなくても気にならない。
ラフィーナは鈴を目の高さまで上げてじっと見る。まさかこんなものが貰えるとは、なんて幸せなのだろう。自分はここへ来ても、ここへいてもいいんだと許された気がした。
「ケースだ。一緒に持って行け。動く度に鳴らされたら迷惑だ」
素っ気ない言い方だったが嫌な感じはない。ええ、と頷いて一度鈴をテーブルの上へ置いた。少し迷って靴を脱ぐ。足が痛くてもう限界。ドレスを少しだけ持ち上げてみると、赤くなった自分の足が見えた。少し血も滲んでいる。はあ、とため息が出た。
あそこにいる皆がこんなにも硬い靴を履いているなんて信じられない。よくも平気な顔をして履けるものだ。足先を動かして足を伸ばすと、痛みと痺れが足に広がった。
沈黙。ネストルは何をするわけでもなくただ椅子に体を預けているだけ。こうして静かになると胸のざわめきが大きくなる。
イリスは大丈夫かしら……。
離宮にいた頃は知らなかった。世界にはこんなにも怖いことがあるということ。不安も恐怖も怒りも知らずに育った自分の環境があまりに特異なこと。心とはこんなにも騒がしいものであること。
膝の上で自分の指を弄ぶ。ざわめく心を誤魔化すように。
「……お前の侍女は問題ない。医師は治癒の魔法を使う」
不意にネストルが言った。顔を上げると、ネストルは椅子の背もたれに体を預けていた。椅子が向こうに向いているせいでちゃんと顔を見ることはできない。だが、何処か違和感があった。
じっと見てそれを探すが分からない。ネストルが長く深く息を吐く。さらりと銀髪が揺れ、ほんの少しだけ顔が見えた。目を疑った。
「ネストル様……?」
「なんだ」
声はいつも通り。いや、いつもよりも鋭さがない。どこか億劫そうな……。
立ち上がり、ネストルへと近付く。
「来るな」
それに気が付いたネストルは明らかに嫌そうな声で言った。しかし、来るなと言われたからと大人しく座っていることなんてできない。
その顔が見えた瞬間、ラフィーナは息を呑んだ。やはり見間違いではなかった。ネストルの顔は驚くほどに色がなかった。
「どうしたの!?」
「構うな、問題ない」
まるでラフィーナを追い払うように手を振るネストル。鬱陶しそうな表情。いつも通りに見えるが、額に汗が浮いている。
思えばパーティーの最中なのにあの場にネストルがいたことがおかしい。パーティーを中座する理由があった? それが体調不良だとしたら……? もしかしたら部屋に戻って休もうとしていたのかもしれない。それを邪魔したのは……
「わたくしが、わがままを言ったから……?」
血の気が引いて、思わず出た言葉にネストルは眉をひそめた。だから知られたくなかったんだ、と小さな声が聞こえたような気がした。
「ご、ごめんなさい、わたくし……どうしたらいいの……?」
部屋に戻るべきか、それとも誰か呼ぶべきか。クレイトスはどこへ行ったのだろう。ネストルが深く息を吐く音が聞こえる。
「狼狽えるな、鬱陶しい。この程度少し休めば治る」
「それならせめて横に……」
立てないなら支えてあげようと思ってネストルの手を握ると、まるで陶器のように冷たかった。




