61.副団長
少しの間、走り去る男の背を眺めていたが、金属の擦れる音でハッとした。
「イリス……!」
床に倒れているイリスに駆け寄り、抱き起こす。膨らんだスカートに沈む体は動かず、目も開かない。
「イ、リス……?」
胸の中が冷たくなっていく。ぞわりと鳥肌が立つ。何かに駆られるように、ラフィーナはイリスの体を揺さぶった。
「イリス! イリス……!」
「ぅ……」
小さく細い声がイリスの口から漏れた。
「イリス!」
イリスの目が薄く開く。ほっとして体が緩んだ。その時になって自分が感じていたのが恐怖だと理解した。イリスがいなくなってしまうかと思った。
「頭を打ったのだろう。医師に見せる。心配はいらぬ」
頭上から聞こえた声に顔を上げると、ネストルが背後からイリスを覗き込んでいた。心配するなと言われてもイリスの体はぐったりとしていて、薄く開いた目もまた閉じてしまった。
『おい! 誰か! 誰かおらぬか!』
ネストルの叫ぶ声にどこからか返事が聞こえ、すぐにいくつかの足音が聞こえた。騎士が数人、姿を現した。
『何事ですか、副団長殿!』
騎士の1人がネストルを見て言った。副団長とはなんだろう。そう思いながらイリスの力無い手を握る。大丈夫、ちゃんと温かい。
ネストルは騎士たちを睨み、鋭く言った。
『遅い! 警備はお前たちの仕事だろう! この程度の任務も果たせぬ騎士など帝国に必要ない』
『申し訳ありません……!』
一斉に跪いた騎士たちを見てネストルは顔をしかめ、舌打ちをする。
『跪く暇があるならさっさと動け!』
怒りを隠さないその表情に不思議に思った。ネストルはこんなにも感情のままに声を荒げる人だっただろうか。いつもの静けさはなく、その様子はまるで八つ当たりをしているようにも見える。
『侍女を医師のところへ連れて行け。状況から見るに突き飛ばされて頭を打っている』
『はっ……!』
腕の中のイリスを見る。このまま死んでしまったらどうしよう、と思うと離れるのが怖かった。
「わ、わたくしも、一緒に……」
声が震えた。ネストルが眉をひそめる。イリスを抱く手に力が入った。
「行っても邪魔になる。心配は無用だ。お前の侍女は死なぬ」
ネストルがラフィーナの腕からイリスの体を抱き上げた。だらんと垂れた手を見るとゾッとした。ネストルが騎士の1人へとイリスを渡すのを座り込んだまま見る。
「大丈夫……大丈夫」
口の中で小さく呟いてみたが、恐怖は消えない。
『残りの者は引き続き警護を続けろ』
『はっ……!』
騎士たちは返事をすると、それぞれどこかへと歩き出す。
『副団長殿、ご婚約者殿を部屋までお送りいたしますか?』
一人の騎士の言葉にネストルはちらりとラフィーナを見た。その口が開くのを見た時、咄嗟に声が出た。
「わ、わたくし……」
ネストルと騎士、二人の視線がラフィーナへ向く。自分でも何を言おうとしたのかよく分からなくて、ラフィーナは視線を彷徨わせた。
「言いたいことがあるなら言え」
ネストルの静かな声。少し考えてラフィーナは小さな声でおずおずと言った。
「わたくし、もう少しネストル様と一緒に……」
こんなことを言ったら面倒だと思われるだろうか。騎士の顔に驚きが見えた。王国語が分かる人だったのか、と少し後悔する。俯いて震える自分の手を見た。ぎゅっと握ってそれを抑えようとしたが、おさまらない。恐怖か羞恥か、両方か。居た堪れなくなってやっぱりいいと言おうと顔を上げた時、ネストルが先に口を開いた。
『……お前も警備に戻れ』
『はっ……!』
騎士は礼をすると歩いて行った。ネストルが座り込んだままのラフィーナを見る。
「立て」
短い言葉。周りを警戒しているのか、左手は剣に添えられている。普段剣を持っていないネストルだが、こうして剣を下げているとまるで騎士のようだ。今着ている服が騎士の服に似ていることもそう思う一因かもしれない。
壁に手をついて体を支えながら立ち上がると、痛みに足がふらついた。耐えてネストルを見る。ネストルはゆっくりと歩き出した。2人分の足音が重なって響く。
ネストルの少し後ろを歩きながら背中を見る。やはり黒の銀の対比が綺麗だ。自分も黒い服を着たらこんなにも美しく映るだろうか。そう考えて一人首を振った。自分はネストルのようにはなれない。こんなにも綺麗なのは、目を惹かれるのは、ネストルだからだ。
少し歩くと騎士とすれ違った。
『お疲れ様です、副団長殿!』
騎士は廊下の端に寄り、礼をとった姿勢で二人が過ぎるのを待つ。通り過ぎた後、ラフィーナはネストルの背に問いかけた。
「どうして副団長なの?」
沈黙。数歩進んでも答えは返ってこない。聞いてはいけなかったかしら、と思った時、ネストルが言った。
「騎士団の副団長の立場にある。故に騎士たちは私をそう呼ぶ」
「騎士団の副団長……」
騎士団と言うと騎士たちが所属する団体のこと。クレイトスが言っていたことを思い出す。
「副団長って何?」
「団長の次、上から2番目の立場だ」
「それってすごいの?」
よく分からずにそう尋ねると、ネストルは「別にすごくはない」と小さなため息をついた。
騎士団で上から2番目。では今日の服が騎士のようだと思ったのも、あながち間違いではなかったようだ。いつもよりも少しゆっくりと歩きながら、ネストルが腰に下げた剣を見る。ネストルの歩みに合わせて揺れるそれは、銀の装飾をきらりと光らせて輝く。まるでネストルのようだ。
「ネストル様はお強いの?」
「……そこそこ」
へえ、と頷いた時、ネストルが足を止め、一つの扉に手をかけた。「入れ」と短く言われ、中を入るとそこは何度も来たことのあるネストルの執務室だった。




