60.男
会場の扉が閉まると一気に音が消えた。分厚い扉の向こうの小さな喧騒が静寂に溶ける。窓の外はすっかり暗くなっている。だが城の中は明るい。パーティーだからだろうか。いつもと違って煌々とついた明かりに不思議な気分になる。
「あら、ゼノン様がいらっしゃいませんね」
イリスの言う通り、扉の前に騎士が2人立っているだけで、廊下には他に誰もいない。
「お部屋に戻るだけだもの。大丈夫よ」
ラフィーナがそう言うと、イリスは「そうですね」と頷いた。
足を進める度にコツ、コツ、と足音が響く。普段の柔らかな靴では足音が立たないので新鮮だ。痛いけどこの音は好きかもしれない。コツ、コツ。
「いい音ね。楽しいわ」
ふふっと笑うと、イリスも「そうですね」と微笑んだ。練習をしたらこの靴を履くことも苦痛ではなくなるだろうか。そう思った時、どこからか足音がもう一つ聞こえた。それは自分のものよりも早く、まるで小走りでもしているかのような……。
『ラフィーナ殿下』
声をかけられた。足を止めて振り返る。微かに肩を上下させる若い男がこちらへ来ていた。知らない顔だ。思った以上に詰められた距離に、ラフィーナは小さく一歩引いた。
『なあに?』
近距離に立った男を見上げて首を傾げると、男は笑みを浮かべて言った。
『婚約者があの氷月の方とは心底同情致します。よろしければ私がお話を聞いて差し上げましょう』
同情。話を聞く。頭の中で言われた言葉を繰り返してみたが彼の言いたいことはよく分からなかった。
『えっと……お話? わたくしあなたとお話ししたいことは特にないわ』
知らない人に話を聞いてもらう必要はない。話がしたいならイリスもタリアもクレイトスもネストルもいる。エリオスだってたまに部屋に来てくれる。しかし男はもう一歩詰めてきた。
じわりと嫌な汗が額に浮かんだ。なんだろう、笑顔だけれど、嫌な感じはないけれど……。
『強がる必要はございません。先ほどの氷月の方の態度には驚きました。あなたという美しい方が隣にいながらも目を合わせることも笑顔を浮かべることもなく。あなたはあんなにも殊勝に笑顔を向けてられたのに』
確かにあまり目は合わなかったけれど、ネストルは元々そういった気質だ。珍しいことではないし、いつもよりも冷ややかだったのも何か考えがあってのことに違いない。
『私でしたらあなたにそのような思いはさせません! どうかこの手をお取りください』
その時になってなんとなく話を理解することができた。つまりこの男はネストルではなく自分とこの男との関係を望んでいるのだ。
『……わたくしはネストル様の婚約者よ』
『だからなんだと言うのです! あの方があなたを大事にしないのですから、あなたはあなたの好きなようにすればよろしいのです!』
男がまた一歩近付いた。少し手を伸ばせば届く距離だ。ラフィーナは思わず後ろへ足を引いた。
『この私があなたを満足させて差し上げます! 身分では勝てませんが、あなたを大事に思う気持ちならば自信があります!』
その血走った目を見てドクリと心臓が鳴った。額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。そうだ、これは恐怖だ。笑顔なのに怖い。距離を取るために足を引いたが、その引いた分を男がすぐに詰める。
『お、お控えくださいませ』
イリスがラフィーナと男の間に割って入った。しかし男は片腕でイリスの体を押し飛ばした。イリスは壁へとぶつかる。
『どけ! 侍女風情が俺に話しかけるな!』
怒号。自分に向けた丁寧な言葉との違いに思わずぶるりと体が震えた。男の顔にはまた笑みが浮かぶ。恐怖を覚えた途端、その笑みが歪んで見える。背筋がゾクッとした。
『さあ、私と共に来てください。このような悪魔のいる城ではなく穏やかな場所へ行きましょう。私があの悪魔からあなたを守ってみせます』
今すぐにこの場から逃げ出してしまいたい。床に倒れたイリスに駆け寄りたい。しかし足が竦んでどちらもできなかった。
『あなたの美しさが私は欲しい……! あなただけを愛して生きていきたい!』
城中に響いたのではないかと思うほどの大きな声だった。いや、ラフィーナにはそう聞こえただけで実際はそこまで大きくなかったのかもしれない。心臓がうるさくて呼吸が荒れる。は、と息が漏れた。
『ああ、そうか』
男は何かに気が付いたように顔を上げ、自身の親指の爪を噛んだ。顔が歪む。
『あの悪魔に脅されているんですね』
何を言っているのだろう、この人は。
『心配には及びませんよ。私が守りますから』
さあ、と手を差し伸べられる。震える体。声は出なくて、小さく首を横に振ることしかできない。
『ああ、そういうことですか。そうですよね、あなたが自分から私について来てしまっては反逆ととられますよね。ご安心ください。私があなたを拐って行きます。これであなたに責は及びません』
ひゅっと喉がなった。分からない。何を言っているのか。汗でまとわりつくドレスを払うこともできず、ただ立ち尽くす。
皆の言っていることはいつも分からない。でもこの人の言うことはもっと分からない。怖い。でもこれはいつもと違う恐怖。分からないことが怖い。
『さあ、ラフィーナ様、私があなたを愛してあげましょう』
男の手が伸びる。恐怖で体が震えて動けない。声も出ない。カチカチと歯が鳴るばかり。
『何をしている』
その声が聞こえたのは、大きな手がラフィーナの腕を握る寸前だった。男の手がピタリと止まる。カツン、と足音が高く響いた。
『私の婚約者に触れようとは……中々大胆だな』
冷たい声。だけどその声にこれ以上ないほどの安心感を覚えた。慌てて後ろに下がり、男から距離を取る。うるさく鳴っていた心臓が少し落ち着きを取り戻した。
『ひ、氷月の……!』
男が目を見開く。その視線は揺れ、表情には恐怖が浮かんだ。しかし次の瞬間にはネストルを鋭く睨んだ。
『婚約者と言っても大事にしないなら私にくださいよ。あなた様はどうせ彼女も殺すおつもりでしょう?』
引き攣った声だったが、男はしっかりとネストルを見ている。ネストルはスッと目を細め、男へと近付いた。ラフィーナは立ち尽くしてそれを見るだけ。コツン、コツン。冷たい足音が響く。まるでそれがネストルの心を映しているようだと思った。
次の瞬間、何が起こったのか分からなかった。気が付いた時には男の首にネストルの剣が突きつけられていた。
『……ひっ!』
少し遅れて男の顔が恐怖に歪む。
『ぎ、儀礼用の剣では……!?』
『そんなものでは緊急時に何も守れぬであろう。兄上の許可はある。抜く予定はなかったのだが……お前のせいだ』
淡々と言うネストルと慄く男。ネストルが剣を少し動かすと、首から赤い血が一筋垂れるのが見えた。
『このままここで切り殺してもいいが……』
視線が一瞬だけこちらへ向いた。冷たい横顔。目には怒りが燃えているのが見える。垂れた男の血が服へ染み込み、赤く染まっていく。剣はピクリとも動かず、じわりと広がる赤から、ラフィーナは目を逸らすことができなかった。
あの剣があと少しでも動けばこの男は死んでしまうのだろうか。先ほどとは違う恐怖に、ふるりと身震いした。
『選べ。ここで死ぬか二度と城へ立ち入らぬか』
『ひ……っ! に、二度と城へ入りません! ラフィーナ様にも近寄りません……!』
涙の浮かんだ目で叫ぶ男。
『次にその顔を見たら斬り殺す』
ネストルは表情を変えずに剣を引き、静かだが怒りの滲んだ声でそう言った。それと同時に、男が転げるように走って行った。




