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6.名前

「この後皇帝陛下が挨拶にいらっしゃる予定です。お疲れのところ申し訳ありませんが、準備をお願いします」



 男はそう言った。ラフィーナはその文脈から誰かがここへ来るのだと察する。そして「コウテイヘイカ」とはすごい人間なのだということもなんとなく分かっていた。父や兄のような。


 それならお出迎えの準備が必要ね、とラフィーナは考える。



「ジジョはどこ?」


「そちらにおりますよ。5人では足りませんか?」



 男の指す先には並んで立つ女達。ラフィーナは首を傾げる。



「あの人間達はジジョじゃないわ」


「ええと……」



 困ったような笑みを浮かべる男を見て、どうして分からないのかしら、と思う。



「ジジョよ。銀の髪のあいつと一緒にどこに行ったの?」



 そう聞くと男の笑顔が一瞬固まったように見えた。ラフィーナはきょとんとして首を傾げる。自分は何か変なことを言っただろうか。


 男はすぐに取り繕うように笑みを深めた。



「“あいつ”というあまり言葉は良くない言葉です。“あの方”と言いましょう」


「あら、そうなのね」



 そう言われるとばあやはそんな風に言っていなかったかもしれない。素直に頷いてラフィーナは言い直す。



「ジジョは銀色のあの方とどこへ行ったの?」


「あなたの侍女は少しすると戻ると思います。それまでは他の侍女をお使いください」



 男の言葉にラフィーナは首を傾げた。



「皆ジジョなの?」


「ええ、侍女ですが」



 男は怪訝そうな表情で頷く。皆同じジジョなら何て呼べばいいのだろう。ジジョと呼んだら誰を呼んだのか分からないじゃない、と。並ぶジジョ達を見ながら首を傾げた。



「……失礼ですが王女殿下、名前はご存知ですか?」


「ええ、もちろん。呼び方よね?」



 ラフィーナは朗らかに頷いた。



「お父様、お兄様、ばあや、ジジョ、でしょう?」



 それは分かるわ、と笑みを浮かべ、自信満々に指折りあげた名前。しかし男は目を丸くしてラフィーナを見た。



「……名前とは個人を表す記号のようなものです。あなたが呼んでいるそれは立場の名称であって名前ではありません」



 ばあやは自分のことをを「ばあや」と呼び、父や兄を「お父様」と「お兄様」と呼んだ。そして父がジジョを「ジジョ」と呼んだ。だからそれが名前。



「……? よく分からないわ」


「あなたは王を父に持つので王女殿下です。分かりますね?」


「ええ……」



 男は穏やかな笑みを浮かべたままゆっくりと話す。



「王女殿下というのは立場の名称です。そしてあなたはラフィーナという名を持ちますね? これが名前です」


「……よく分からないけれど、ジジョは名前じゃないの?」



 タチバとかメイショウとかよく分からない。でもジジョが名前ではないのだということはなんとなく分かった。



「ええ、その通りです。侍女とは身の回りの世話や雑用をする者のことを言います。彼女達は別に名前を持っています」



 そんなこと知らなかった。



「ではお父様やお兄様もお名前ではないの?」


「違います」


「ばあやも?」


「はい」



 ラフィーナはパチパチと瞬きをした。それならそうと教えてくれたらよかったのに。ああ、違うわ、教えてくれる人間なんてらいなかったもの。せめてジジョが喋ることができたら自分ももう少し色々なことを知っていたかもしれないのに。そう思った。



「おま……あなたのお名前は?」



 そう聞くと彼は一瞬目を丸くした。ラフィーナは離宮を出た後も人の名前なんて気にしなかった。銀の髪の彼と穏やかな彼に名前があるとも思っていなかった。しかしあると聞けば聞きたくなった。


 男はふふっと笑い、言った。



「クレイトスと申します」


「クレイトス……」



 口の中で繰り返す。それがこの人間の名前。



「クレイトス」



 もう一度はっきり口にした。



「わたくし誰かの名前を呼ぶのは初めてなのね」



 自然と顔が綻んだ。花が咲くような笑みに、クレイトスもつられたように笑う。



「光栄です」



 視界の端で髪が揺れ、キラリと輝いた。離宮を出て10日。こうして誰かとちゃんとお話をしたのは初めてだわ。胸が温かくて、緩んだ頬が戻らない。


 不意に父の顔がよぎった。途端、胸が締め付けられ、言いようのない苦しさに襲われる。浮かべていた笑みは消え、高揚感は鳴りを潜め、胸の内がすっと冷えていく感覚がした。



「王女殿下?」



 クレイトスの怪訝そうな視線。それから逃れるようにラフィーナは俯いた。



「……お父様は冷たいお顔をなさるのかしら」



 兄は言った。父や兄の言いつけを守らないと父や兄は自分を嫌いになる。嫌いになるというのはもう会いに来てくれなくなるということだ、と。


 震える手を胸の前でぎゅっと握る。



「お願い、このことはお父様には言わないで。もう知りたいなんて思わないから。何も知らないわたくしでいるから……お願い」



 俯いたまま震える声でそう言ったラフィーナに答えたのは、とても温かい声だった。



「……大丈夫ですよ。私が勝手にお話ししただけですからね。王女殿下に非はありません」



 ゆっくりと顔を上げる。クレイトスの微笑みが見えた。少しだけ苦しさが和らいで、ラフィーナは握っていた手を解く。


 意識して口元に笑みを作った。



「お出迎えの準備をするわ。わたくし一人で大丈夫よ。人間が多いとどうしたらいいか分からないの」



 クレイトスは探るようにラフィーナへ視線を向けたが、その顔にはすぐ笑みが浮かんだ。



「分かりました。侍女は外で待機させましょう。用事があればベルを鳴らしてください。そちらに置いてあります。持ち上げて振ると音が鳴りますので」



 クレイトスの手が示す先を見ると、キラキラと輝く黄色のものがあった。逆さにしたカップに細い棒がついたようなもの。これはベルというのね、と考える。



「それから、“人間”ではなく“人”と言った方が少し柔らかく聞こえますよ」


「ひと……」



 呟くラフィーナを見て、クレイトスはひらりと手を振った。侍女たちが扉を開けて出て行く。



「それではまた後ほど伺います。侍女達は皆王国語を喋ることができます。何かあれば遠慮なくおっしゃってくださいね」



 そう言って部屋を出て行こうとするクレイトスを、ラフィーナは慌てて引き留めた。



「あ、あの、“ありがとう”というのは良くない言葉ではないかしら……?」



 自分が当たり前に使っていたいくつかの言葉が良くない言葉だと指摘を受け、恐る恐る聞いた。確かこの言葉はばあやが教えてくれた言葉だったはずだから良い言葉だと思うのだけど。そう思っているとクレイトスはふふっと笑った。



「ええ、それは良い言葉です」



 ほっと胸を撫で下ろした。



「ありがとう、クレイトス。優しいのね」



 クレイトスは柔らかな微笑みを浮かべると頭を下げて今度こそ出て行った。1人になった部屋でラフィーナはふう、と息を吐く。さっきまで光に溢れていた部屋だったのに、突然暗くなったような気がする。扉を開けたから光がこぼれてしまったのかもしれない。


 お出迎えの準備をしなければ。ラフィーナは何も考えないようにして、着ている服に手をかけ、勢いのままに脱いだ。

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