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5.新たな言葉

 案内された部屋に一歩入ったラフィーナは思わず足を止めた。


 大きな窓から光が差し込み、白い壁や布が輝いている。テーブルと椅子が数脚。見たことのないほど大きなベッド。ふわふわのソファ。大きな衣装ダンス。どれもラフィーナの部屋にあったものと似ているが、大きさも細やかな装飾もラフィーナの知っているそれとは随分と違う。何よりも壁までの距離が遠かった。



「こちらが王女殿下のお部屋です。お好きにお使いください」


「……お城って何もかもが大きいのね」



 高い天井を見上げながら、ラフィーナは呆然と呟いた。


 きっとラフィーナの離宮のラフィーナの部屋を二つ合わせてもまだ足りない。こんなにも広いとお掃除が大変だわ、と思って、お掃除はしなくていいのだと思い出した。


 ゆっくりと中へ入る。


 部屋の隅に5人の人間が立っていた。皆お揃いの服を着ていて、その服がジジョが着ているものと少し似ているような気がする。



「衣装や生活に必要なものは一通り揃えてあります。他にも何か必要なものがあればご用意します。侍女に申し付けください」



 穏やかに微笑む彼へ視線を向ける。そう言われてもジジョはいない。



「どうされましたか? 言いたいことや聞きたいことがあれば何なりとどうぞ」



 その言葉にラフィーナは目を逸らした。言いたいことや聞きたいこと。ある。だけどそれは自分が知ることではない。本当に聞いてもいいのだろうか。少し逡巡して、ゆっくりと口を開いた。



「聞いてもいいの?」


「え? ええ」



 男は少し不思議そうに頷く。



「わたくしが聞いても大きな声を出したり、冷たいお顔をしたりしない?」



 男は笑顔を消して息を呑んだ。その反応はどういう意味だろう。冷たい顔ではない。でも……良い顔でもない。やっぱり駄目なのね、と胸の辺りがズンと重くなった。


 まだばあやがいた頃、分からない言葉の意味を聞いた時、父は笑顔を消した。兄は「お前は黙って笑っていろ」と大きな声を出した。だからラフィーナは分からないことがあっても聞かなかった。自分は何も知らなくていいのだから。



「申し訳ありません。何でもいたします。許してくださいませ」



 視線を下げて兄に教えられた謝罪を口にする。やはりお父様やお兄様は正しいのだわ、と思った。聞いてはいけない。それはこの優しそうな人の笑顔がなくなるようなことなのだ。


 視線を床に落としたまま言葉を待つ。本当はこの謝罪はあまり口にしたくなかった。これを言うと兄は許してくれるけれど……ぎゅっと身体に力が入った。



「……何でもする、などと口にしてはいけませんよ」



 返ってきたのは予想をしていない言葉だった。ゆっくりと視線を上げる。男は眉を寄せて不快をあらわにしていた。冷たいお顔だわ、と思うと同時に体が動かなくなった。この顔の人間を前にすると動けなくなる。そうは言ってもラフィーナがこの顔を見たのは父と兄と銀の髪の彼とこの男の4人だけだが。息が苦しい。


 ラフィーナは視線を滑らせてジジョの姿を探した。無意識の内だったが、これも兄に止めろと言われたことだったと思い出した。あの時、兄が自分にさせたことも一緒に思い出した。


 体が震え、この場に立っているだけで精一杯だった。男の顔を見ることができない。今すぐにベッドに入って、頭まで布団で覆ってしまいたい。帰りたい。父の元へ。あの離宮へ。


 両手をぎゅっと握り、その衝動に耐える。ふと柔らかな声が聞こえた。



「そう怯えないでください。私はあなたに危害を加えない、と申したでしょう?」



 顔を上げると、男は穏やかな、だけどどこか硬い笑顔を浮かべていた。



「申し訳ありません。少々驚いてしまっただけです。何でも聞いていただいて問題ありません」



 本当だろうか、とラフィーナは考える。見上げた微笑みは確かにもう冷たくない。これが兄だったらこんなふうには笑ってくれなかっただろう。



「……アナタにキガイを加えないってどういう意味なの? オビエナイデというのも分からないわ」



 小さな声でそう言うと、男は微かに目を見開いて、それでも微笑みを浮かべたまま言った。



「“危害を加えない”というのはあなたの“嫌なことはしない”という意味です。“怯えないで”は“怖がらないでください”ということですが……」


「アナタは? コワガラナイデは?」



 説明されてもその説明の言葉すらラフィーナには分からない。男が深く長く息を吸う音がラフィーナの耳に届いた。その響きはあまりいいものに思えなくて、また胸の奥が締め付けられる。



「“あなた”と言われたことはありませんか? お父様やお兄様は王女殿下をなんとお呼びだったのです?」



 その問いの答えは考えなくとも出てきた。今にも消えてしまいそうな声で答える。



「お父様はラフィーナや“お前”と。お兄様も“お前”と呼んでらしたわ」



 だから名前以外で他の人間を呼ぶ時はそう呼ぶのだとラフィーナは思っている。ジジョを呼ぶ時もそう呼んでいた。しかし男は苦々しい表情を浮かべる。



「“あなた”と言うのは“お前”を丁寧にした言い方です。使い分けが分からない内は“あなた”を使った方がよろしいかと思います」


「そうだったのね」



 ラフィーナの顔から強張りが消えた。新しい言葉を覚えること。それはラフィーナの世界に輝きをもたらす。父の「知らなくていい」という言葉の裏で、新たな言葉を覚えることに喜びを感じる。チクリと胸が痛んだ。



「それから“怖がらないで”という言葉ですが……何が分からないのでしょうか?」


「何が……?」



 首を傾げるラフィーナを見て男も首を傾げる。聞かれている意味が分からない。



「……もしや“怖い”が分からないなんてことはありませんよね?」


「コワイ?」



 息を呑む気配がいくつもあった。目の前のこの男だけじゃない。あそこに並んで立っている人間たちも大きく目を見開いていた。



「“安心”は分かりますか? ほっとすることです」



 ほっとすること。なんとなくわかる。



「動かなかった体が動くようになったり、このあたりが温かくなること、かしら?」



 手を胸に当ててそう聞くと男は頷いた。



「ええ、そうです。“怖がらないで”というのは“安心して”という意味と同じです。ここにはあなたに嫌な思いをさせる人はいません。安心してください」



 この人間は自分が聞いたことをちゃんと教えてくれる。まるでばあやみたいだわ、と思う。


 男のその言葉通り、穏やかな微笑みが胸をじんわりと温かくした。

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