56.謝罪
「とても綺麗です! ラフィーナ様!」
イリスが華やいだ声をあげる。しかしラフィーナはとてもそんな気分にはなれない。ため息が出た。
「足が痛いわ」
藤色のドレスを見に纏ったラフィーナは視線を落としてそうぼやいた。その先には膨らんだスカートが見えるだけで、足を締め付ける硬い靴は見えない。どうせ見えないのならいっそ脱いでしまいたい。だけどそんなことを言ったらきっとイリスが困るから。
とうとうパーティーの日が来たのだ。いつもよりも長くお風呂に入り、顔に何かを塗られたり、髪を飽きるほど梳かれたり、大きく膨らんだドレスを着たり、立っているだけで痛くなる靴を履いたり。
やっと準備ができたところだというのにもうすっかり疲れてしまった。もう一度ため息をついたラフィーナを見て、イリスは困ったように笑う。
「ラフィーナ様、少しの間ですから我慢してください」
「分かっているわ。大切な日なのでしょう」
ネストルと自分の婚約パーティー。ドラウゼン出身の自分の、帝国の貴族達へのお披露目でもある今日のパーティーはとても大切らしい。何がどう大切なのかは分からないけど、イリスもクレイトスも何度も言っていたから。
「行きましょう」
イリスに促され、ラフィーナは10日ぶりに部屋の外へと足を踏み出した。
この10日間、部屋から一歩も出ることなく過ごした。本を読んだり勉強をしたり、イリスやクレイトスと喋ったり。この10日の間に生と死の概念についても理解することができた。
ラフィーナにとってそれは決して苦痛ではなかった。だが……。
部屋を出ると騎士が1人立っていた。その顔を見て足を止める。見たことある顔。誰だったかしら、と考えていると、騎士が跪いた。
『先日は大変失礼いたしました。申し訳ございません。どのような罰もお受けします』
『えっと……』
誰かも思い出せないのに謝られても困る。罰なんて言われたらもっと困る。首を傾げると騎士は少し顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。それに記憶が刺激された。
『あ、あの時の』
兄に会いに行ったあの時の騎士だ。自分を見て怯えていたあの騎士。なんという名前だったかしら。そう思った時、後ろからイリスが『ゼノン様です』と囁いた。そうだ、そんな名前。騎士に対して敬称はつけないとクレイトスが言っていた。そう考えて『ゼノン』と呼んだ。
『わたくしこそごめんなさい。あなたに迷惑をかけてしまったわ』
自分が無知であるが故に迷惑をかけてしまった。ゼノンのあの時の怯えが今なら理解できる。
ゼノンは『いいえ』と深く頭を下げた。
『ネストル様のご命令を守れなかったのは自分に責があります。その上、ラフィーナ様に対してあのように……責めるような物言いをしてしまって……大変申し訳ありませんでした』
ラフィーナは跪くゼノンの顔を見たくてしゃがもうとした。が、後ろから伸びたイリスの手がそれを制した。しゃがんではいけないのだろうか。
『立ってちょうだい』
その言葉でゼノンが立ち上がる。ラフィーナを見るその目は真っ直ぐで、あの時の怯えはもうない。
『わたくしが怖くないの?』
別にあの時のことを責めているわけではなく、純粋に不思議に思った。ゼノンはもう自分に会いたくないのだと思っていたから。
ゼノンが再びバッと膝をつく。その勢いにラフィーナはたじろいだ。
『申し訳ございませんでした……! あの後ネストル様から詳しくお聞きしました。自分の無知で不快な思いをさせてしまって』
『あの、違うの』
勢いのまま大きな声で謝罪するゼノンの言葉を遮った。
謝る必要などない。怖がられたからといってなんとも思わない。ただ、あの笑顔が見られなくなることを残念に思っただけ。
『いいのよ。わたくしはまたあなたの笑顔が見られるならそれで。謝るよりも笑って欲しいわ』
ラフィーナの言葉にゼノンはポカンとラフィーナを見上げた。
『わたくしは笑っている人が好きなの。エリオス様やクレイトスやあなたの笑顔は特に好きよ』
穏やかで優しくて安心する。そう言って笑うと、ゼノンの表情もゆっくりと穏やかな笑みへと分かった。温かな笑顔。また見ることができた。
『ラフィーナ様、そろそろ行かなければ……』
『ええ、そうだったわ』
イリスに言われて思い出した。パーティーへ向かおうとしていたところだった。ゼノンが立ち上がり、『ご案内します』と前を歩き出した。歩きながら考える。
自分が好きなのはゼノン達のような穏やかな笑顔。なのにどうして会いたくなるのはネストルなのだろう。
この10日間で会ったのはイリスとクレイトスのみ。エリオスもタリアも他の侍女も、扉の外に立っていたらしいゼノンですらも顔を見ることがなかった。そしてそれはネストルも例外ではなかった。
元々数少ない人の中で生きてきた。一人の時間を楽しむことはできる。全くの一人でない限りは平気。イリスがいれば寂しさを感じることはない。
来るもの拒まず、去るもの追わず。だけど、
「……会いたいわ」
口から漏れた声は誰の耳にも届かないほど小さかった。だけどラフィーナ自身には聞こえた。
唯一そう願う人。唯一会いたい人。
「ネストル様……」
冷たくて厳しくて、純粋な笑顔など見たこともないネストル。だというのにどうしてこんなにも会いたいのだろう。
ネストル様に会えば分かるかしら?
そう思うと足の痛みも忘れた。この先にネストルがいる。もうすぐ会える。
足取りが軽くなった。




