55.お茶
握っていたネストルの手がするりと抜けて離れる。立ち上がり、後ろを向いたネストルの顔が見えなくなる。ラフィーナは座り込んだまま、つい今までネストルの手を握っていた自身の手をじっと見た。
まだ震えが残っている。だけど凍てついたようだった手に、じんわりと温かさが広がっている。熱を奪った? ……いや、きっと奪われたのは自分の冷たさだ。
「……あの時、わたくしは何をしたの?」
自分が無知であることは知っている。部屋から一歩外に出ると分からないことばかり。だけど何も理解していないわけではない。
ネストルはあの老人を殺す前「お前でなければ止められぬ」と言った。あの時何が起きていたのかは分からない。だけど自分が何かをしたのだろうとは思う。
コツン、と足音が響いて、ネストルはいつもの椅子へと腰掛けた。「そっちに座れ」とため息混じりの声が言った。答える気はないのだろうか。
袖で涙を拭って立ち上がり、思い出した。自分はお茶を淹れようとしていたところだった。
再び茶器へ手を伸ばす。だけど震える手ではティーポットをもつこともできそうになかった。
「茶はもういい。座れ」
素っ気ない言葉にラフィーナは小さく頷き、ソファへと足を向けた。足も震えているのか、いつもと感覚が違う。でも気が付かないふりをして、ソファへとかけた。
「……どうしてネストル様はお兄様を助けたの? また戦争になるから?」
震える手を膝の上で握り締め、そこを見つめる。ため息が聞こえた。これも教えてくれないのかしら、と思った時、返事があった。
「お前の兄が死のうが、ドラウゼンの王子が死のうがどうでもいい」
本当に心底どうでもよさそうな、投げやりな声。思わず顔を上げた。ネストルは椅子に体を預けたまま、足を組んでいる。その視線がゆっくりとラフィーナへ向いた。
「ならば、どうして……?」
呆然とするラフィーナをネストルはじっと見つめる。真っ直ぐな目。いつの間にか手の震えは止まっていた。
「……言っただろう。お前に命を奪わせはしない、と」
兄が死ぬのはいい。でも自分が殺すのは駄目。何故?
兄の苦しむ姿が脳裏に浮かぶ。あのままだったら兄は死んでいた。殺したのは自分。
ぞっとした。
「……だから、あの時短剣を持っていたの?」
不思議だった。助けようとしている兄の前で抜き身の短剣を握るネストルの姿。まるですぐに殺せるように握っているようで。
「わたくしが盛った毒でお兄様が死ぬ前に、ネストル様が殺すために……?」
「そんなところまで見ていたのか」
ネストルが諦めたようにため息をついた。しかし肯定も否定もない。ラフィーナは返事がないことなど気にせずに考える。
ならば今日のあれもそうだったのだろう。どんな手段か、自分があの老人を死へ追い詰めた。それを止める術がなかったからネストルが自らの手で命を奪った。そんなのは自分が殺したと同義だ。
さあっと血が引く感覚があった。それだけじゃない。
「いけません」とクレイトスが言った。「致し方ない」とネストルは言った。「さすがにやばい」とタリアは言った。つまり、兄は死んでもよかったが、あの老人は、ミルヴェン家の当主は死んではいけなかった。殺してはいけない相手だった。
そんな人を殺してネストルの立場はどうなるのだろう。
「……わたくしのせいで」
ポツリと落ちた呟きに、ネストルがため息をつく。「違う」と鋭い声が言った。
「当主を殺したのは俺だ。お前が殺したのではない」
どうして考えていることが分かったのだろう。
「あのままにしておけばどうにかなったやもしれぬ。それでも殺した。常日頃からあのじじいが邪魔だと思っていたからだ」
静かな瞳をじっと見る。それが真実か嘘か、全く分からない。
「お前とタリアが拐かされたことで大義名分ができた。今日のはいい機会だった。俺がそれを利用した。お前は関係ない」
大義名分。確かに皇帝の妹であるタリアが攫われたら理由ができるだろう。だけどそれだけではないような気がする。思い上がりだろうか。
ネストルは優しい。それに色々なことを考えている。ラフィーナの頭では考えつかないようなことを。だからネストルの考えていることなんて全く分からない。
「……人を殺すのはいけないことなのでしょう? わたくしのせいでネストル様がいけないことをしてしまったわ」
視線を落とす。自分の足が目に入った。右足にはまだ包帯が巻いてある。火傷は大したことなかったが、落としたティーカップの破片で切れた傷はまだ癒えていない。
「俺はこれまで数え切れぬほど殺してきた。今更一人くらい増えたところでなんとも思わん」
いつもと同じ淡々とした声がそう言った。理解できない。あの恐ろしいことを自分がしたと思っただけで体の震えが止まらなかったのに。
「……お前のせいではない」
思い出したように付け加えられた言葉に、ラフィーナはやっぱり、と確信した。ネストルの語ったことは嘘ではないのだろう。だけどきっと自分を庇う為に殺したことも嘘ではない。
お礼を言おうと口を開いたが、ネストルの言葉がそれを遮った。
「話はこれで全部か」
まるでもうこれ以上話したくないとでもいうような言い方。だけど首を振った。まだある。聞きたいこと。
「どうしてあの時、ネストル様はわたくしのお茶を飲んだの?」
タリアが尋ねた時、理由なんてない、とネストルは言った。だけどそんなわけがない。日頃から毒を警戒するネストルがそんな迂闊なことをするわけがない。
「俺の言葉はもう伝えてある。その上でお前が俺の死を望むならそれでもいい」
ネストルの表情が変わった。決して笑っているわけではない。だけど今まで見た中で一番柔らかく見えた。目が離せなかった。いつも冷たい顔のネストル。こんな顔もするのね、と驚きの中で思った。
「お前の美しい心になら殺されてやってもいいと思った」
予想もできない言葉だった。体も視線も動かせない。ただネストルのらしくない柔らかな表情と静かな声だけがそこにあった。
分からない。その言葉の真意が。分からない。ネストルの心が。
不意にネストルの顔に冷たさが戻り、視線が扉へ向く。
「迎えだ」
その言葉と同時に聞こえたノックにハッとした。
クレイトスが入って来て、ラフィーナとネストルへそれぞれ視線を向ける。
「早いな」
ネストルの言葉にクレイトスは「ええ」と微笑んだ。
「忙しいかと思いまして」
「ああ、そうだな。お前がそいつを連れて来た時は徹夜を覚悟した」
唇の端を吊り上げたネストルの嫌味な言い方に、ラフィーナは自分が仕事の邪魔をしたことに気が付いた。
「も、申し訳ありません。すぐに出て行きます……!」
ソファから立ち上がって扉へと向かう。恥ずかしくなった。自分のことしか考えていなかった自分が。怖いから、なんて子供のような理由で夜中に会いに来るなど。ネストルは自分の世話係じゃないのに。
先ほど言われた言葉がズンと胸に重くのしかかった。クレイトスの横を抜けて闇の中へ足を踏み出した時、「おい」と聞こえた。振り返る。不思議と自分が呼ばれたのだと分かった。
「謝るな。迷惑なら最初から部屋に入れていない」
いつもの冷たい目。素っ気ない言い方。だけど言葉は冷たくない。頬が緩んだ。くすくすと笑う声がした。ネストルが「なんだ」とクレイトスを見る。
「いいえ。随分と入れ込んでいるな、と思いまして」
一瞬遅れて、ネストルがクレイトスを睨むのが見えた。
「まさかお前ずっとそこで聞いていたのか」
嫌そうな顔。クレイトスは答えない。「悪趣味だな」とネストルの呟きが聞こえた。
「心配だっただけですよ。安心しました」
ネストルが苦々しい表情で舌打ちをした。その視線がラフィーナへ向く。目が合い、首を傾げると、ネストルはもう一度舌打ちをして目を逸らした。
「怪我をさせた。悪かった」
「え、ええ……」
そう頷いたが、咄嗟に何のことか分からなくて、一拍遅れて理解した。首と足。兄のあの時の怪我。
クレイトスが笑みを浮かべて部屋を出る。扉が閉まると闇に包まれた。ラフィーナは窓の外の薄明かりを頼りに、闇の中をゆっくりと歩きながら、心の中にあった恐怖やざわめきがすっかり消えていることに気が付いた。




