54.恐怖
闇の中を歩く。踏み締めた廊下が冷たくて、硬いはずなのにどこか柔らかくて。このまま進めば目の前に広がる闇に呑まれてしまいそうで、それ以上進めなかった。
頭がぼんやりとする。窓から入る微かな明かりを見上げる。細い月が深い闇の中で輝いていた。それがまるで弧を描いた口のようで。
ぞわりと何かが体を這った。
「ラフィーナ様」
気遣うような声と共に足音が戻ってきた。上げていた視線を闇に落とし、きつく目を閉じる。
蘇る。老人の貼り付けたような笑みと、ぽっかりとあいた目が。
寒い。苦しい。
「大丈夫ですよ」
穏やかな声と共に、温かな手がラフィーナの震える手を優しく握る。
「ここには怖いことなど何もありません」
顔を上げると、闇の中でもクレイトスの笑顔が見えたような気がして、少しだけ、ほんの少しだけ、心が緩んだ。
「分かって、いるわ……」
でも、という言葉は飲み込んだ。
あの後、ネストル達と共に馬車で城へと戻った。ネストルかクレイトスが一緒じゃない時は絶対に部屋から出てはいけないと釘を刺され、今度こそラフィーナは部屋の中で大人しくしていた。今まで中にいた侍女はいなくなり、部屋の外に騎士が立った。
部屋に一人は少し寂しいけれど仕方がない。そう思っていたけれど、ベッドに入って目を閉じても昼のことを思い出すだけで、あの目を思い出すだけで、一向に寝られなかった。どころか、闇の中では恐怖でおかしくなってしまいそうだった。
一人で部屋を出てはいけないと何度も言われたので、ラフィーナはベルを鳴らした。イリスが来て、怖くて眠れないという話を聞いたイリスに呼ばれたクレイトスと共にラフィーナは今廊下を歩いている。
先導するクレイトスはどこへ向かっているのか言わない。だけどこれから行くのはネストルの執務室であることは分かっている。いや、自分がネストルの元へ行くことを望んでいる。
クレイトスの手に支えられたまま再び歩き出す。少しして着いたのはやはりネストルの執務室だった。少し待ってください、と言われてクレイトスが中へ入る。暗い廊下でポツンと一人。
ぞわりと鳥肌が立ち、心臓がうるさくなる。体も握る手も尋常じゃないほどに震える。だけど何が怖いのか自分でも分からない。
中から微かに聞こえる2人の声に耳をそばだてる。大丈夫。一人じゃない。ネストルもクレイトスもすぐそこにいる。何を話しているかは分からないけれど、そう思うと少し震えがおさまった。
少ししてクレイトスが出てきて、中へ入るように促される。
「後ほどお迎えに上がります」
部屋から漏れる明かりでクレイトスの笑みが見えた。穏やかな笑顔。優しく背中を押されて部屋に入ると、明るさに目が眩んだ。
背後で扉が閉まる音がする。ネストルはいつもと同じようにそこに座っていた。深いため息。
「俺はお前と婚約をした覚えはあっても、世話係になった覚えはない」
面倒くさそうな言い方にズキリと胸が痛んだ。自分でも分かっている。ネストルに迷惑をかけていることは。だけどこんな時に浮かぶのはいつもネストルの顔だけなのだ。
何も言えなくて俯くと、もう一度深いため息が聞こえた。
「……まあいい。茶を淹れろ」
お茶を淹れる? 自分が?
思わずネストルを見つめた。ネストルは「なんだ」と目だけでラフィーナを見る。
お茶を淹れることは構わない。喜んでする。だけど兄に毒を盛ろうとした自分が淹れたお茶を、毒を警戒するネストルはどんな気持ちで飲むのだろう。
だけど、ネストルに「茶を淹れろ」と言われると、いつもが戻ってきたようで固まっていた心が少しほぐれる。
茶器に手を伸ばすと、「ああ」と思い出したような声が聞こえた。
「これはお前に返してやろう」
カツン、と軽い音が足元でした。なんだろう。振り返る。足先に小さな何かが当たり、転がる。
一気に心が冷えた。兄にもらったペンダント。チェーンは外されているが間違いない。この小さな小さな小瓶の中には毒が入っていた。
今この中にあの液体が入っているのかいないのか分からないけど、これだけであの時の兄を連想するには充分だった。足も手も指先まで冷えていく。
ただ立ち尽くした。それを拾うことも視線を外すこともできず。
「……どうして」
少しの間を置いて、ようやくそれだけ言うことができた。乾いた声だった。喉も口の中もカラカラで舌が張り付く。
ぎこちなく上げた目でネストルの冷たい顔を見た。ネストルは言った。いつもと同じ、淡々とした声で。
「俺だけには使うことを許可する。俺の死を望むなら使え。お前の淹れた茶はどんなに不味くとも飲んでやる」
分からない。言葉は聞こえているのに理解ができない。頭が理解することを拒んでいる。
「わ、わたくしが、ネストル様の死を望む……?」
言葉にすると同時にそれが頭に浮かんだ。
口から血を流して倒れるネストル。動かない体、言葉を発しない口、冷たさすらもない虚な目ーー
「い、やぁ……っ!」
足の力が抜けた。薄い布越しに伝わる冷たさが体温を奪っていく。体が震え、両腕で抱き締めても止まらない。ガチガチと歯の鳴る音と異常に速い心臓の音と荒い呼吸音に耳が支配された。
とめどなく落ちる水滴がスカートを濡らす。ぼやけた視界にはそこに転がる小さな毒が映っていてーーあるはずのないネストルの死が見えた。
落とした視界に靴先が入った。震えが止まらないまま顔を上げる。ネストルが目の前に膝をついた。その手が躊躇うように伸ばされ、頬に触れる直前で引かれた。
いつもと変わらない表情に見える。だけど少し困っているようにも見える。
「……悪かった」
自分の荒い息の間に聞こえた小さな声。耳を疑った。驚きのせいか、恐怖が一気に和らぎ、苦しさから解放された。
は、と息を吐く。まだ苦しいけど、視界もぼやけるけど、訳がわからないほどの恐怖はどこかへと消えた。ネストルは静かな声で言った。
「お前を怯えさせるつもりはなかった。必要ないならいい。これは処分しておく」
ネストルの手が小さな金属の小瓶を隠すように握る。もう片方の手がやはり躊躇いがちに伸び、触れるか触れないかのところで頬の涙をすくった。
そのまま引かれる手。気が付くとその手を握っていた。凍えるような指先にネストルの体温を感じた。ネストルが微かに驚いたように目を見開く。握った手は緊張したように強張っている。
「……わ、わたくし、知らなかったの」
声が震えていた。
「死ぬことがあんなにも怖いことなんて、知らなかった」
知っていたら兄に毒を盛ろうなんて思えなかった。知っていたら気軽に口になんてできなかった。知っていたら……。
無知とはなんと恐ろしいのだろう。
「お兄様を殺そうとしたのはわたくし。あの人を、当主を殺したのもわたくし……」
わたくしがあんなことを言ったから。
また手が震えた。
「違う。殺したのは俺だ。俺が俺の剣で刺した。お前に命を奪わせはしない」
真っ直ぐな目。嘘ではない。それがネストルの心からの言葉なのだと分かる。だけど……涙が一粒床に落ちた。




