53.“死”
ネストルはラフィーナを見て、ふらふらと歩く老人の背中へと視線を移す。
「……どういう状況だ」
眉をひそめたネストルが老人の背から視線を逸らさずに呟いた。ラフィーナも同じ背を見ながら答える。
「分からないわ。さっきまでお話ししていたのよ。だけど急にどこかへ行こうとされているの」
「当主」
ネストルが老人の背に呼びかける。老人は振り返ることも足を止めることもない。ネストルがコツコツと靴音を鳴らして老人の前に回り込む。途端、顔が強張った。
ラフィーナもネストルの横に並び、同じように老人の顔を見る。ぼんやりとどこかを見る虚な目。さっきまであんなにも喋っていたのに今は一言も発しない。
ネストルの鋭い目がこちらを見た。
「お前、当主に何を言った。この状態になる直前だ」
「え?」
低い声だった。ラフィーナを見るネストルの目は大きく開かれ、視線は定まっていない。お兄様が毒を飲んだあの時のようだわ、とぼんやりと思った。
老人との先ほどの会話。ネストルが死ぬべきだと言われた。だから自分は……。
老人が足を止め、虚な目がネストルへ向く。そして細い枯れ枝のような手がネストルの腰へと伸びた。
ネストルが舌打ちをして、その手を避けるように下がる。老人の手は空を切った。老人が何を狙っているのか。ラフィーナの目にはネストルが腰に下げた剣が見えた。
「言え! お前は当主になんと言った……!」
大きな声にピクリと肩が揺れた。ネストルが怒っている。老人の手は何度もネストルへと伸びる。鈍い動きだが執拗に狙うその手は真っ直ぐに剣へと向かっている。
自分はまた怒らせてしまったのか。思わず俯いてしまいそうになるのを堪え、焦りの浮かんだネストルの顔を見る。
「死ぬべきはあなたの方よ、と」
震える声でそう言うと、ネストルの動きが一瞬止まり、唇が微かに動いた。何故だか音にならない言葉が分かった。
ーー最悪だ。
「ラフィーナ様、ネストル様」
後ろから聞こえた声に振り向くと、クレイトスが馬から降りるところだった。ネストルがラフィーナの隣に立ち、腕を引っ張る。乱暴な手。鈍い痛みがあった。
「やめろ、と言え。お前でなければ止められぬ」
「や、やめろ……?」
何が起こっているのか全く分からないままラフィーナは言われた通りに口にする。しかし老人は止まらない。ネストルの舌打ちが聞こえ、ぐい、と腕が引っ張られた。かと思えば背中が押され、気が付くと目の前にはクレイトスの胸があった。
「どのような状況ですか?」
頭上からクレイトスの硬い声が聞こえた。支えるように肩に置かれた手が温かい。
「最悪な状況だ。もうどうにもできぬ」
その声と同時に硬質な音が聞こえた。振り向く。そこには剣を抜いたネストルと、相変わらず虚な目の老人が向かい合って立っていた。
「いけません、ネストル様」
クレイトスの嗜める声。振り返って見上げたクレイトスの顔は強張っていた。
「分かっている。だが……致し方ない」
静かな諦めたような声だった。もう一度前方へと視線を戻す。何をするのだろう。ぼんやりと見つめる。ネストルがゆっくりと動いた。
「ラフィーナ様、見てはいけません」
大きな手が目を覆い、何も見えなくなる。背中にクレイトスの体温を感じ、前からはコツン、と足音が聞こえた。次いで、くぐもった短いうめき声。
静寂が訪れた。耳に入るのは遠くの喧騒だけで、目を塞ぐ手がなければ、背中に感じる体温がなければ、この場に一人で立っていると間違うほどの静寂。
長く吐く息。不思議とそれがネストルのものだとすぐに分かった。それから何か重いものが落ちるような音が聞こえた。
「クレイトス、手をどけろ」
目を覆う手がピクリと動いた。少しして躊躇うようにゆっくりと手が離れ、遮られていた視界がひらけた。まず目に入ったのはネストルの凍てつくような鋭い目。視線を少し落とすと、右手に握った抜き身の剣が見えた。青白い刃を赤い液体が伝い、地面へと滴る。
ラフィーナの目はそれを辿るように動く。地面には老人が倒れていた。うつ伏せの体の下から剣についたものと同じ色の液体が流れていて、顔はこちらへ向いていてーー目が合った。
ひゅっと喉がなった。足がよろけ、背中がクレイトスにぶつかる。しかし目を逸らすことはできなかった。虚な目。だけど先ほどとは違う。言葉では表せない何か。恐怖が込み上げた。
「ラフィーナ様」
クレイトスの気遣うような声が聞こえたが、動くことができない。心臓が速く打っている。すぐに分かった。死んでいる。
これが“死”なのだと。
手が、唇が震える。足が動かせない。先程まで動いて喋っていた老人。今はピクリとも動かない。死んでいるから。
これが、死……? わたくしがしようとしていたこと……?
あの時ネストルが助けなければ兄はこうなっていた? 恐怖でおかしくなりそうな中、頭の冷静な部分でそう思う。
視界の端でネストルが剣を振り、液体の飛び散る音がした。
「皇族を拐かした罪で斬った。これでこの件は終わりだ」
静かな声。ゆっくりと視線を上げるとネストルの目が見えた。分かったか、と聞かれているような気がした。
『姉さま……!』
後ろから聞こえた声にハッとした。振り返る。クレイトスの体温が離れ、タリアの姿が見えた。
『姉さま、大丈夫だった!?』
『え、ええ……』
そう言えばあの時タリアも同じように攫われていたのだ。震える手を握り締め、微笑みを浮かべたがちゃんと浮かべられたのかは分からない。
発した声は酷く空虚なものだった。
『タリア様は、大丈夫?』
『うん、義姉さまが来てくれたから』
『ねえさま……?』
自分ではない。ならば誰のことだろう。ラフィーナの呟きにタリアがハッとしたように口を押さえた。後ろでため息が聞こえた。
「全て片付きました、義姉上。先に戻り兄上への報告をお願いします」
ネストルの言葉にどこからか「分かりました」と返答があった。あねうえ。ネストルがそう呼ぶ人間がいるのか、とそちらを見る。そこに立っていたのはルイーズだった。馬に乗ったままのルイーズはラフィーナへにこりと微笑みかけ、馬を返した。どういうことだろう。遠ざかる背を呆然と見る。
「うわ、ミルヴェン家の当主じゃん。兄さまが殺したの? さすがにやばくない?」
タリアの驚いたような声。また振り返ってそちらへ視線を向ける。
「皇族を攫った。当然の報いだ」
「いやいや、ミルヴェンはまずいでしょ……何考えてんの」
「少なくともお前よりは考えている」
変わらない表情で淡々と言うネストルを眺める。
もう何がなんだか分からなくて、心の中がぐちゃぐちゃで、自分が何を思い、考えているのかも分からなかった。




