52.誘拐
『タリア様、ラフィーナ様』
歩くラフィーナ達を呼び止めたのは果物屋の店主だった。何度か通っているうちに気軽に話しかけてくるようになった店主。ラフィーナは今日は何があるのかしら、と店を覗く。いつもだったら色々と説明してくれる店主だが、今日は違った。
顔を上げると、店主が周りを気にするように視線を滑らせるのが見えた。
『今日はお二人ですか? 護衛の方は?』
『置いて来たけど、どうしたの?』
タリアの問いに店主は不安そうな表情を浮かべた。
『つい先ほどお二人のどちらかを探すような者がいました。あまりよくない雰囲気があったのでお気をつけた方がいいと思います』
タリアが怪訝そうな顔で店主を見る。
『あたし達? なんで?』
『分かりません。銀色の髪の娘はいつ来るのか、と聞かれました』
銀色の髪の娘。ラフィーナが知る限り、それに当てはまるのは自分とタリアだけだ。タリアと顔を見合わせて首を傾げる。その時、ふわふわと漂っていたタリアのツインテールが、不自然な動きを見せた。それを不思議に思う前に、
『きゃあ……っ!』
タリアの口から小さな悲鳴が漏れる。その後ろに男がいるのが見えた。と同時にお腹に圧を感じ、足が地面から離れた。
『お二方……!』
店主の驚愕に満ちた顔が遠ざかる。肩に担がれて移動している。そう気が付いたのはタリアが反対方向へ連れ去られるのが見えたから。自分も同じ状況だと理解することができた。
恐怖よりも困惑と混乱が大きかった。反対に流れて行く街並みを見ながら、こういう時はどうしたらいいのかしら、と考えた。しかしその答えはラフィーナの内側にない。結局、ラフィーナは抵抗することなく、お腹にかかる圧に苦しさを感じながらも、流れる街並みを見ていることしかできなかった。
ラフィーナを担いで走っていた人間は路地で止まった。まるで荷物を下ろすかのように乱暴に地面に降ろされ、痛みに思わず声が漏れる。
『どっちだ?』
掛けられた声に顔を上げる。ラフィーナを担いでいたのは粗末な服を着た若い男だった。貴族ではないように見える。
『どっちって、なんのお話?』
『当たりか外れか、だ』
当たりか外れ。意味が分からない。分からないわ、と小さく答えた。目の前の男は誰なのか、どうしてここへ連れて来られたのか、何も分からない。
太陽も当たらないような、暗くてジメジメした細い路地。地面が濡れているのか、お尻にじんわりと冷たさを感じる。
突如、拍手の音が響いた。
『よくやった、当たりだ』
しゃがれた声に横を見ると、路地の奥から誰かが歩いて来るのが見えた。豪奢な服を着た老人。どこかで見たことがある気がする。誰だったかしら。首を傾げるラフィーナの前で、老人は男の前に小さな麻袋を投げた。男はそれを拾うと、ラフィーナを見ることなくどこかへ走り去って行く。
『ラフィーナ、迎えに来たよ。さあ、お前の家へ帰ろう』
笑顔。だけどその目はギラギラとしている。それで思い出した。何日か前にお城の中で会った人。自分の大伯父だと言っていた老人。ネストルは当主と呼んでいた。なんてお名前だったかしら。
『お迎えに来てもらわなくてもちゃんと帰るわ。わたくしはもう少しお買い物がしたいの』
露店には見たことのない果物が並んでいた。名前を聞いて食べてみたい。勝手に出てきたとは言え、ついさっき来たばかりだ。帰るにはまだ早い。
『欲しいものがあるならなんでも買ってやろう。お前が汚い平民の街を歩く必要などない』
言葉の端々から嫌なものを感じる。ラフィーナは地面に座ったまま老人を見上げた。張り付いたような笑みの不気味さに腕がぞわりとした。
『聞けばお前は外へ出るのはあまり好きではないのだろう? うちでは外に出る必要などない。必要なものは全て用意するし、誰もお前の部屋に入れないようにしてやる』
その言葉でラフィーナはこの老人が言う『お前の家』が城を指すのではないと気が付いた。
『わたくしが帰るのはお城よ。あなたと一緒には行かないわ』
老人の頬がピクリと動いた。
『何故だ?』
『あなたのおうちにはネストル様がいないもの』
考えずに出た言葉に自分でも少し驚いた。どうしてタリアやクレイトスではなくネストルの名だったのだろう。なんて考えている余裕はなかった。老人の笑みが完全に崩れ、ギラギラとしていた目に怒りが宿ったから。
『何故お前はあの小僧を好いている!? 知らないのか!? あいつは母親を殺した悪魔だ! 見てろ、今にエリオス様をも殺すぞ!』
母親を殺した悪魔。そんな話聞いたことがない。ネストルが悪魔と呼ばれ、恐れられていることは知っていたけれど。
『ネストル様は優しい方よ。皆誤解しているわ。エリオス様のことも大事に想ってらっしゃるわ』
ネストルがエリオスを殺すなど絶対にあり得ない。仲の良い兄妹だから。老人ははっと馬鹿にしたように鼻で笑う。しかしその口角は上がっていないし、歪んだ表情に狂気すら感じる。
『優しい? そんなわけがないだろう。忌々しい小僧め。わしのラフィーナを誑かしおって……』
憎々しげに吐き捨てられた言葉にラフィーナはカッとなった。老人の言葉の深い意味など理解できない。だけどネストルに向けられた悪意は声からひしひしと伝わってきた。
『あんな小僧さっさと死ぬべきなのだ』
一瞬、目の前が赤くなったような気がした。ネストルが死んでしまっては会えなくなってしまう。そんなこと許せない。
ズルリ、と体の中で何かが蠢いた。
『死ぬべきはあなたの方よ』
口から出た声は自分のものと思えないくらい重かった。驚きつつも老人を下から睨む。老人の目はもうラフィーナを見ていなかった。ふらりとどこかへ歩き出す。その背中を見てラフィーナは首を傾げた。
諦めたのだろうか。てっきり怒られるかと思ったが。ふらふらと歩く後ろ姿。もしかして自分の言葉にショックを受けたのだろうか。不思議に思いながらも立ち上がる。おしりが冷たい。どのくらい濡れているのか、上体を捻って確認しようとした時だった。
「ラフィーナ……!」
鋭い声が聞こえた。顔を上げるのと、馬が目の前で止まるのは同時だった。
「ネストル様?」
どうしてここにいるのかしら。馬から飛び降りるネストルを見ながら、ラフィーナは首を傾げた。




