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47.毒

 音に驚いて振り返ると兄が椅子から崩れ落ちるところが見えた。床にはお茶と砕けたカップが広がっている。せっかく淹れたお茶がもったいないわ、と思う。でも仕方がない。残ったお茶も捨てるしかない。



「ネストル様が飲んでしまってはいけないものね」



 持ったままのティーポットを見ながら小さく呟いた。視界の端で兄がのたうつ。床を叩く音と潰れた声。


 お茶は美味しかっただろうか。



『ラ、ラフィーナ、様……?』



 乾いた声に顔を上げると、騎士が愕然としていた。その顔に笑みはない。ラフィーナが首を傾げるのと騎士が扉を開けるのと、どちらが早かったか。騎士が勢いよく廊下へ飛び出すのを、ラフィーナはただ見ていた。



『ネストル様……! クレイトス殿!』



 大きく呼ぶ声が廊下から聞こえる。ネストルとクレイトスが来たのか。自然と頬が緩む。しかし近付く足音がいつもと違う。不思議に思い首を傾げた時、2人が部屋の中へ勢いよく飛び込んできた。


 ネストルは苦しむ兄とラフィーナを見てチッと舌打ちをした。



『クレイトス! 持っている解毒薬を全て出せ! 絶対に死なせるな!』



 大きな声。怖い顔。いつもの静かな声ではない。怒っている。誰に? ……自分に?



「どうしたの……?」



 ネストルはツカツカとラフィーナの元へ歩み寄り、首の鎖を引っ張った。



「いた……っ!」



 細いチェーンが首に食い込んで声が出た。しかしネストルは気にせずに片手でラフィーナの肩を押さえて引っ張る。チリ、と熱を感じると同時にチェーンが切れた。


 不意に手の中の重みが消えた。引っ張られる力の反動か、ティーポットが手から滑り落ちたのだ。あ、と思った時には大きな音がして、足に熱い液体を感じた。


 不自然な沈黙の中で兄の苦しそうな声だけが聞こえる。熱い。だけど我慢できないほどではない。砕けた陶器の間を茶色い液体が流れる。その先を辿るとネストルの靴先が視界に入った。


 視線を上げる。ネストルは目を大きく見開き、ラフィーナの足を見ていた。その目が揺れる。このような明らかな動揺をネストルに見たのは初めてだった。



「ネス……」



 大丈夫かと近寄ろうとすると、



「動くな!」



 大きく、鋭い声が言った。上げかけた足が止まる。薄い色の瞳が揺れている。引き攣った口元が見えた。


 怒ってはいない、多分。でもその顔に浮かぶ感情がなんなのか分からない。だけど珍しい。いつも静かな目をしているのに今は驚くほど色々な感情が見える。視線が一瞬交錯し、ネストルが動いた。



「クレイトス!」



 兄の元へと振り向いた背中。入れ替わりにこちらへ来るクレイトス。ぼんやりと眺める。



「ラフィーナ様、失礼いたします」



 視線がネストルから離せなかった。クレイトスの言葉に応えずにいると、ふわりと体が持ち上げられた。正面に顔を向ける。いつもよりも近いところにクレイトスの顔があった。硬い表情。クレイトスの視線の先を辿ると自分の足に行き着いた。


 抱き上げられて浮いている足。赤みを帯びたそこに、真っ赤な筋が走っている。ポトリと赤い雫が足から落ちる。熱さに紛れて分からなかった。



『医師はまだですか!』



 焦る声が聞こえた。兄の横に座り込んだ騎士の声だろう。ネストルは何も言わずに手の中にあるペンダントの蓋を開け、液体を手の甲に垂らした。何をするのかと眺めていると、驚くことにネストルがそれを舐めた。



「え……?」



 あれは飲んだら死んでしまう。なのにどうして。そう思っている間にネストルはぺっと吐き出す。そして机の上に並べられている小瓶をいくつか選び、兄の口の中へ流し込んだ。


 口を挟む隙もないほどにあっという間の出来事だった。眉間に皺を寄せ、厳しい表情のネストル。


 何をしているの? とは尋ねなくても分かった。兄が死なないようにしている。


 どうして? どうして助けるの? どうしてそんなにも必死な顔をしているの? どうしてお兄様を助ける為に……?


 ネストルが兄から離れる。はあ、と息を吐いたのが分かった。



『間に合ったか?』



 ネストルの言葉に騎士が兄の体のあちこちに触れながら『分かりません』と硬い声で返した。いつの間にか兄は静かになっていた。ピクリとも動かない体。だけどその胸が微かに上下してあるのが見える。ネストルは舌打ちをしてどこからか短剣を取り出し、抜いた。


 窓から入る日差しを反射して光る白い刃。冷たい輝きに胸がざわめいた。



『クレイトス、行け。私は後で行く』



 右手に短剣を握り締め、兄に視線を向けたまま、ネストルは静かな声で言った。



『……はい』



 クレイトスが返事と共に歩き出す。抱き上げられたままのラフィーナの体も一緒に揺れる。部屋を出る直前までラフィーナはネストルから視線を逸らせなかった。冷たい横顔。だけどその目が揺れている。足からお茶と血が混ざった雫がひとつ落ちた。


 廊下へ出ると兄もネストルも見えなくなった。


 ネストル様は今どんな気持ちなのかしら。怒っている? 悲しんでいる?


 分からない。ネストルの気持ちも、どうして助けたのかも。昨日は面倒が増えたって嫌そうにしていたのに。


 お兄様が死んだらネストル様のお仕事は減るのではないの?


 そう聞こうとしたが、クレイトスの表情は硬く、ラフィーナは声を発することができなかった。どうしてそんな顔をしているのだろう。ネストルもクレイトスもいつもと違う。自分を見てくれない。


 わたくしは何かいけないことをしたのかしら?


 考えてみたがよく分からなかった。

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