46.兄
ラフィーナが眠りから覚めて起き上がった頃にはくっきりとした影が床に落ちていた。朝のぼやけた空気ではないことを瞬時に悟ったが、自分が寝過ごした理由が思い出せない。寝ぼけた頭で部屋の中を見まわし、首に感じた硬さに昨夜の記憶が蘇った。
「お兄様……」
兄と会った。ネストルの執務室でネストルとタリアと一緒にいた。お茶が不味いと言われて、毒が怖いと話して……それから、タリアと他愛のない話をしているとクレイトスが迎えに来て、部屋に戻った。
床に足をつける。服の中のペンダントを取り出して小さな小瓶の蓋を開けた。光を反射して揺れる液体が見える。
毒。これを飲んだら死ぬ。死んだらもう会えない。蓋を閉めて、ラフィーナは着ていた寝衣を脱いだ。適当な服に着替え、部屋の扉を押す。
『ラフィーナ様、どちらへ?』
急にかけられた声にビクリとして、扉の陰からそちらを見た。騎士が扉の脇に立っていた。どうしてここにいるのだろう。何か用事だろうか。狼狽えていると、騎士は穏やかな笑みを浮かべた。
『ネストル様よりラフィーナ様の身を守るよう仰せつかっております。どうぞお気になさらず』
考えるまでもなく昨日の兄の一件だろう。『そうなの』と頷いて今度こそ部屋を出た。
『どちらへ?』
再び聞かれた問い。何と答えるべきか。少し考えて正直に言った。
『お兄様にお会いしたいの。駄目かしら? ほんの少しお話しするだけでいいのだけど……』
駄目だと言われたらどうしようもできない。諦め半分で言ったが、意外にも騎士は『大丈夫ですよ』と頷いた。
『ラフィーナ様のお望みはできるだけ叶えるように、とネストル様がおっしゃいましたから』
騎士の明るい笑顔に、自然と笑みが浮かんだ。
案内されたのは立ち入ったこともないような城の奥だった。やはり同じような扉が並んでいる中で、そこだけ騎士が2人立っている。
『このお部屋にいらっしゃいます。私も共に入ることをお許しいただけますか?』
笑みを浮かべた騎士の言葉にラフィーナは頷いた。断る理由がない。
騎士が扉を開けると、中には不機嫌な顔の兄が座っていた。昨日とは違い、光の中でちゃんと顔が見える。紛れもなく兄だ。背後で扉が閉まる音を聞き、ラフィーナは呼んだ。
「お、お兄様……?」
声が震えた。兄の視線がこちらへ向く。鋭いその目で怒っているのはすぐに分かった。だけど懐かしいその顔に笑みが浮かんだ。
「お兄様……!」
たっと床を蹴り、座っている兄の首に腕をまわし、抱きついた。昨夜はそこまで気が付かなかったけれど、懐かしい香りが鼻をくすぐる。
「ごめんなさい、お兄様。昨日はびっくりしてしまって……わたくし、お兄様に会えて本当はとても嬉しいの」
そう言って抱きついた腕を解くことなく、少し体を離して微笑みを浮かべてみせると、兄の表情が少し和らいだ。
「お会いしたかったわ」
もう一度ぎゅっと抱きつき、耳元でそう囁く。
「……俺も会いたかったよ、ラフィーナ」
兄の手が動く気配。それが背中にまわる前にラフィーナはパッと離れた。兄の顔は見ずにくるりと背中を向ける。
「お兄様、わたくしレガルディアのお茶も淹れられるようになったのよ」
そう言って茶器の前に立つと、「そうか」と兄の少し不機嫌そうな声が聞こえた。
「わたくしの離宮に帰った時にお父様やお兄様に飲んでもらいたくて練習したの」
足先でまわって振り返る。スカートがふわりと広がった。ああ、靴を履くのを忘れていたわ、と頭のどこかで思った。
微笑みを向けると兄は目を細めた。どうやら機嫌はなおったようだ。「淹れてくれるか」と柔らかな、だけどどこか高圧的な声が言った。
ええ、と頷いて再び兄に背中を向ける。が、お茶を淹れるには必要なものがなかった。
『お湯をもらえるかしら?』
一緒に中に入り、扉の前に立つ騎士を見ると、騎士は『すぐにお持ちします』と部屋を出て行った。
「離宮を出た時にお兄様にお会いできなかったからずっと気になっていたの」
首だけで振り返ると兄は頬杖をついて窓の外を眺めていた。つまらなさそうな顔。
ラフィーナはお茶を淹れる準備をしながら、気にせずに続ける。
「こんなにも時間が経ってしまって、お兄様はわたくしのことを忘れてしまったのではないかと思っていたのよ」
兄が自分の話をちゃんと聞かないのはいつも通り。それでもたまに返ってくる言葉が嬉しいから。これまでと同じように思いつくままに言葉を発する。
「ねえ、お兄様、何をしにいらしたの? わたくしを迎えに来てくださったの?」
お湯はまだかしら、と思いながら振り返る。兄はちらりとラフィーナを見た。
「迎えは父上が来る。もう少し待っていろ。俺が来た用件は昨日伝えただろう」
兄の鋭い視線に「そうだったわ」と視線を落とす。裸足の足の先を擦り合わせる。失敗してしまった。
兄はすぐに怒る。同じことを聞いても怒るし、何か気に入らないことを言ってしまっても怒る。ならばいっそのこと何も話さなければいいのでは、と思ったこともあるが、それはそれで怒る。ラフィーナがどんなに気を付けても兄の機嫌は悪くなる。短気さはネストル以上。
「簡単だろう? ラフィーナ」
しかし兄の声は不機嫌ではなかった。期待と悪意の混ざった声。
胸元のペンダントがずしりと重くなる。これをエリオスとネストルに飲ませる。それだけ。
視線を落としたまま消え入りそうな声で「ええ」と頷いた時だった。ノックの音がして騎士が入って来た。
『お待たせいたしました。熱いのでお気を付けください』
穏やかな笑みによって空気が少し軽くなった。いや、軽くなったのはラフィーナの心だ。
『ありがとう』
ホッとして少し口角が上がった。
『そこでネストル様にお会いしました。こちらに来られるそうです』
『まあ、ネストル様が……!』
弾んだ声で答えると、騎士は目を細めて笑った。この騎士はクレイトスやエリオスに似ている。穏やかで柔らかくて。
受け取ったお湯のポットからティーポットに注ぐ。その湯気を見ながら、今日は上手に淹れられるかしら、と考えた。立ち昇る香り。いつもより上手に淹れられたかもしれない。
「どうぞ」
カップを兄の前に置くと、兄はふん、と鼻を鳴らしてすぐに手に伸ばした。
兄の側から離れてティーポットの中の残ったお茶を見つめる。これはどうしようかしら、と首を傾げた時、背後で水音と硬く鋭い音が重なった。




