44.招かれざる客
夜の闇の中、ラフィーナはベッドを降りた。胸がざわついて眠れない。昼のあの老人のせいだろうか。いつもだったらすぐに訪れる眠りは、今日はいくら待っても来なかった。
裸足のまま部屋を出る。月の明かりのない闇の中。目を凝らすと歩けるくらいには周りが見えた。ペタ、と自分の足音が闇に消える。記憶を頼りに足を進めた。目的地はネストルの執務室。他に行く場所もない。
視線を落とすと、闇の中に自分の白い服がひらりと揺れるのが見える。廊下を曲がった途端、背筋がぞくりとした。なに、と思う前に強い力で二の腕が掴まれた。
「きゃっ……!」
驚いて小さな声が出た。後ろへ引っ張られ、すぐに大きな手に口が塞がれる。背中に誰かの体温を感じた瞬間、お腹にまわった腕が体を拘束する。心臓が早く打った。訳が分からなくて、その腕から逃れようともがく。
「いや、だれ? はなして……!」
「ラフィーナ」
耳元で聞こえた声にピタリと動きが止まった。知っている、この声。頭の中で1人の顔が浮かび、ラフィーナは大きく目を見開いた。
お腹の腕から少し力が抜け、多少の自由を取り戻したラフィーナはゆっくりと振り向く。口から手が離れ、闇の中に見えたのは知っている顔。
ここにいるはずがない。だけど闇の中でも見間違えるはずもない。
「お、おにい、さま……?」
兄だった。
「よお、久しぶりだな、ラフィーナ」
暗くてよく見えないがその唇が弧を描いたように見えた。夢だろうか。だが掴まれたままの腕に伝わる体温も痛みも本物だ。
「ど、どうしてここに……?」
驚きからか、心臓がうるさいほどに打っている。
「お前の部屋を探す手間が省けたぜ」
ラフィーナの問いに兄は答えずにニヤリと笑った。暗くて見えないはずなのに見える。その声を聞いただけで兄がどんな顔をしているのか分かる。
「ラフィーナ、お前を助けに来た」
腕を掴んでいた手が離れ、チャリ、と冷たい音がした。
「中に入っているものを皇帝と弟に飲ませろ」
その言葉と共に首に何かがかけられた。冷たさに鳥肌が立つ。
「飲ませたら、どうなるの?」
声が震えた。首に感じる細い冷たさと、胸に微かな重み。それに触れる。小さな何か。その冷たさに体温が奪われるように指先も冷たくなっていく。兄が鼻で笑った。
「死ぬんだよ」
死ぬ。死ぬとは命がなくなること。それは悲しいこと。もう会えなくなるということ。
「お前は何も気にしなくていい。俺の言うことだけを聞いていたらそれでいいんだ」
重ねられた言葉。高圧的な声。悪意。ラフィーナの手の上から兄の手が重なる。思わず手を引いたが、兄は何も言わずにそれをラフィーナの服の中へと隠した。
その手はそのまま背中にまわり、抱き締められた。熱く感じるほどの兄の体温。体が強張り、今にも足から力が抜けてしまいそうだ。
「愛している、ラフィーナ。お前は俺のだ。俺だけのものだ」
囁かれた声。耳にかかる吐息。喉がひゅっと鳴った。
「い、や……っ!」
体が勝手に動いた。両掌と肘に強い衝撃。気が付いた時には兄はたたらを踏んでいた。一瞬の静寂。
「ラ、ラフィーナァ……!」
兄が目を剥いたように見えた。
「ぁ……え……?」
今何をした? 押した? お兄様を? わたくしが? 信じられない。わたくしが? お兄様を?
荒い息の音。
「お前自分が何をしたのか分かっているのか!」
そこで、聞こえる荒い息が自分のものであると気が付いた。
「も、申し訳ありません……!」
驚いて、分からなくて、怒る兄の声に反射的に謝った。しかし兄の怒りはおさまらない。こちらへ伸ばされた大きな手に体が縮み、ぎゅっと目を瞑った。
途端、ひゅっと空気を切り裂く音が聞こえた。
「なっ……!」
次いで兄の驚くような声。恐る恐る目を開ける。長身の誰かの影が見えた。
「騒がしいと思って来てみれば……随分と高貴なお客様がお見えのようですね」
「クレイトス……?」
穏やかな声に体の力が抜けた。へなへなと床に座り込む。兄の前で何かが微かな月明かりを受けてキラリと光った。
「お怪我はありませんか? ラフィーナ様」
「だ、い、じょうぶ、よ……」
呆然として答えると、クレイトスは「よかったです」と笑みを含んだ声で言った。コツン、と靴音が響く。
「何故ドラウゼンの王子がここにいる。お前が招いたのか?」
冷たい声が闇の中から聞こえた。責めるような響きにビクリと体が震えた。兄を見る。怒りに燃える目が闇に浮かび上がって見えた。恐怖で声が出なくて、座り込んだまま首を振る。
どうして兄がここにいるのかなんて、そんなことはこちらが聞きたい。
「ラフィーナ……! お前こんなことをしてどうなるか分かっているだろうな! 父上はお前を許さないぞ……!」
ひ、と声が漏れた。何に対してだったのか、自分でも分からない。兄の低い声が恐ろしくて、父の名に心が揺れ、自分のしたことに心底悔いた。
「ご、ごめ」
「謝るな」
謝罪は遮られた。コツン、と隣で足音が止まる。ぼんやりと見上げると影だけが見えた。
「ネストル様……」
「立て」
どこからかいくつもの足音が近付く。兄の悪態をつく声も聞こえる。舌打ちと共に影が近付き、腕が握られた。引っ張られ、立ち上がる。痛くはなかったが、先ほどの兄の手の感触を思い出して吐き気が込み上げた。
「クレイトス、後は頼む」
「はい。お気を付けください」
クレイトスの穏やかな声が答え、ネストルはラフィーナの腕から手を離さず歩き出した。ラフィーナは引かれるままに歩く。
たった数分の間のこと。何が起こったのだろう。どうしてこうなったのだろう。自分はただネストルのところに行こうとしただけなのに。
「……分からないわ」
首にかかった鎖がずっしりと重く、だけどすっかり体温に馴染んでそこにあった。
執務室に入る。眩しさに目を細めたラフィーナの腕はその時になってようやく解放された。ネストルの手が触れていた腕をさする。じんわりとあたたかいそこにまだ感触が残っている。嫌ではない。
「安全が確実のものとなるまでここにいろ。俺は少し出て来る。すぐ戻るから茶を淹れておけ」
ネストルはそう言うと返事も待たずに出て行った。遠ざかる足音。
ーー中に入っているものを皇帝とその弟に飲ませろ。
兄の声が蘇った。服の中に隠れたペンダントを取り出す。それは小さな小さな金属の小瓶。蓋が開き、小さな口の中で液体が光を反射した。
これを飲んだら死ぬ。死んだらもう会えない。
ぼんやりとそう思いながら、ラフィーナは茶器に手を伸ばした。




