42.当主
外を歩くとじわりと汗をかくようになった頃、ラフィーナはイリスと2人で廊下を歩いていた。そろそろ部屋の花の元気がなくなってきたので、新しい花を前庭で摘もうと思って。
あれからネストルの執務室には行っていないので、定期的にクレイトスに預けている花が実際に飾ってあるところは見たことがない。だけど同じタイミングで摘んだ花が置いてあるはずだ。きっとそちらも元気がなくなっていることだろう。
柔らかく足を包む靴で固い廊下を踏み締める。少し暑くて乾いた空気。窓からは日が射していて、なんだかとても清々しい気分だ。
階段を2つ降りた時、前方に見慣れた姿を見つけた。背の高い人と、そこまで高くない銀色の髪の人。背中しか見えないけどあの組み合わせは知っている。
「あそこにいるのってネストル様とクレイトスよね?」
イリスに視線を向ける頷きが返ってくる。何をしているのかしら、と思いながら少し近付くと姿がはっきりと見えた。クレイトスの陰に隠れて見えなかったが、もう一人いる。話をしているようだ。声が聞こえてきた。
しゃがれた男の声が早く会わせろ、自分には会う権利があるのだと怒りをあらわに言う。唾が飛ぶ勢いの老人に、ネストルは本人が望んだら、と静かに返す。対照的な二人は何度も同じような言葉を繰り返している。
少し離れたところで足を止めてイリスを見る。
「ご挨拶した方がいいかしら?」
姿を見たのに無視して通り過ぎるのもよかないかしら、と確認するとイリスはこくりと頷いた。
「お話が終わるのを待ちましょう」
イリスの言葉に「ええ」と返した時だった。老人がラフィーナを見た。そして目をむいた。その顔が仰々しくて、胸の奥が固まる感覚があった。
ネストルとクレイトスも振り返る。まだ距離があるのではっきりとは見えなかったが、ネストルが顔をしかめたように見えた。
『ラフィーナ……!』
老人が大声で叫び、半ば転げるように走り寄って来た。そのあまりの勢いにラフィーナは思わず一歩引く。
『ラフィーナ! ラフィーナ……!』
老人はラフィーナの前で足を止め、がしっと両肩を掴んだ。
「いっ……」
口から出かけた言葉が「嫌」だったのか「痛い」だったのか、自分でも分からなかった。
自分を見つめる目の前の血走った目。ネストルとは違う鋭さ。掴まれた肩の痛み。
体が強張り、顔が引き攣るのか分かった。何かが腹の底から込み上げ、ここから走り去りたい衝動に駆られる。だけど足は動かない。
コツ、と横で足音が止まった。
『当主、落ち着いてください。王女が怯えています』
静かな声。目だけでそちらを見る。服が触れ合うほどの距離にネストルが立っていた。
安堵するのも束の間、興奮したような大きな声と共に肩を掴む手に力が入った。痛みに顔が歪む。
『顔を見せてくれ……!』
片手が肩から外れ、頬に伸ばされる。その手が怖くて、触れられたくなくて、思わず足を引いた。掴まれていた肩から手も外れる。しかし老人は気にした様子を全く見せず、今度は涙を流し始めた。
『よく、よく似ている……間違いない……!』
ネストルが深いため息をつき、ラフィーナの前に立った。まるで庇うように。視界に入る銀の色に胸を撫で下ろす。
その時になって、ラフィーナは自分がネストルの袖口を掴んでいることに気がついた。いつの間に。恐怖から逃れる為に掴んだのだろうが、無意識だった。そっと手を離した。
『彼女はまだ何も知りません。日を改めてください』
隣に立ったクレイトスが「大丈夫ですよ」と穏やかに囁く。何も言わずに頷いたが、やはり尋常じゃない様子の老人はネストルに掴みかからん勢いで言った。
『やっと会えたんじゃ! 日を改めるなどできるか……! ラフィーナは我が家の希望じゃ! レガルディアの希望じゃ!』
陰で囁く人達とも、好奇の目を向けてくる人達とも違う。初めて見る反応にラフィーナは困惑した。自分が希望? 何の話?
老人の目がネストルを超えてラフィーナへ向く。鋭く光るその目に浮かぶ感情は何なのか。初めて見る目。今まで見たことのない目。目を逸らし、ネストルの影に隠れるように俯く。
……いえ、違うわ。お父様に似ている気がする。
何が似ているのか、どうしてそう思ったのか、説明はできないがなんとなく似ている気がした。
『わしはお前の大伯父じゃ、ラフィーナ』
この1年間徹底的に隠しおって、と老人の責めるような声が聞こえた。
『オオオジ……?』
聞き慣れない言葉にイリスを見ると、イリスはクレイトスを見た。ラフィーナもクレイトスに視線を移す。しかしクレイトスは笑みを浮かべるだけで説明はしてくれなかった。せめて王国語にしてくれたら分かるかもしれないのに。
『当主、日を改めてください。彼女はまだ何も知りません』
ネステルが同じ言葉をもう一度発した。後ろ姿しか見えず、どんな顔をしているのかは分からないが、冷たい声に怒りが滲んでいるような気がする。
『知らぬなら教えればよい。わしが教えてやる!』
老人は全く怯むことなくそう言い、ネストルを睨んだ。雰囲気が変わる。背筋がぞくりとした。
『ラフィーナを渡せ、小僧。お前の婚約者だとしてもまだ婚姻はしていない。ラフィーナはわしの、ミルヴェンの血を引く娘じゃ。城よりも我が家にいるのが相応しい』
老人の言葉にラフィーナは首を傾げた。聞き間違いでなければ目の前の老人と自分が同じ血を引いていると言われた。本当なのかしら、と視線を動かす。
クレイトスが困ったような笑みを浮かべる。イリスは強張った顔でネストルの背を見るだけで何を考えているのか分からない。
ネストルが振り返る。鋭い目がラフィーナを射抜いた。
『あの、』
説明を求めて口を開いたが、ネストルの冷たい声が遮った。
「聞いたな。事実だ。この老人はお前の親族だ。行きたければ行けばいい。お前が決めろ」
「ネストル様」
咎めるようなクレイトスの声。「黙っていろ」と素っ気なく言ったネストルはラフィーナから目を逸らさない。
何が何だか分からない。老人とネストル、2人分の鋭い視線を受けて、ラフィーナは視線を彷徨わせた。




