41.異名
数日後、ネストルがラフィーナの部屋を訪れた。この数日間、ラフィーナは前庭や裏庭で花を見る時くらいしか部屋を出なかった。たった数日なのに随分と久しぶりなような気がする。一度だけ花を持って執務室を訪ねたが、その時ネストルはいなくて花だけを置いて帰ったのだ。
「街へ行く」
ネストルは開口一番にそう言った。短い言葉。これは誘われているのだろうか。ラフィーナは一瞬迷って答えた。
「イリスと2人で行くわ。ネストル様は街に用事はないのでしょう?」
ネストルは夜遅くまで仕事をしているとクレイトスが言っていた。前のように馬車で待っているだけなら一緒に行ってもらう必要はない。イリスも今日は手が空いているようで、今もお喋りをしていただけ。
「迷惑はかけられないわ」
そう微笑むとネストルは眉をひそめ、不快をあらわにした。何が駄目だったのか、自分の言葉を振り返る。その原因が見つかる前に鋭い声が言った。
「私が迷惑かなど関係ない。行くのか、行かないのか」
「い、行くわ」
急かすように言われて、ラフィーナは慌てて立ち上がった。
それからもネストルは数日置きに部屋を訪れ、ラフィーナを街へ連れ出した。タリアやイリスと一緒の時もあるし、クレイトスだけの時もある。だけどネストルはいつも一緒に行き、また、一度も馬車から降りることはなかった。
何故ネストルが馬車から降りないのか、何故名前を出してはいけないと言うのか。その理由を知ったのは何度か街へ行き、街の人間がラフィーナを好奇の目で見なくなった頃、ラフィーナが喧騒に慣れた頃だった。
いつもと同じように城へ戻るなり馬車を降りて一人で歩いていく背を見ながら、ラフィーナはクレイトスに問いかけた。
「氷月の方とはネストル様のことよね?」
城でも街でも何度も聞いた名前。それがネストルを指すのだと確信があった。聞いたのは念の為の確認。クレイトスは「ええ」と頷く。
「どうしてネストル様は皆からあんなにも恐れられているの?」
街の人たちはネストルのことを異様に怖がっている。前からなんとなくそんな空気は感じていた。自分のこの銀色の髪を見て街の人たちがネストルの名を出していたことにも気が付いていた。
曰く、目が合ったら斬られる。曰く、姿を目にして生きている者はいない。曰く、短気で平民を何人も斬っている。
最近はほとんど聞かないけれど、自分の陰口が城で聞こえていた時も、同じようにネストルを恐れるような言葉が聞こえていた。
確かに怖い人ではある。鋭い目に厳しい言葉、冷たい顔。ラフィーナだってその人となりを知っていてもつい最近まで恐怖を覚えていた。
それでも、それにしても、だ。
「いつだったかしら。ネストル様の執務室で会った方達も、わたくしのところにいた侍女もすごく怯えていたわ。どうしてあんなに怖がっていたの?」
侍女が真っ青な顔をしていたあの時はただネストル様は怖いのよね、と共感するだけだった。だけどそれにしてはおかしい。いくらなんでも真っ青になって震えるほどではないのではないだろうか。それともそういうものなのだろうか。
クレイトスは困ったような笑みを浮かべた。
「……その件に関して私から話すことはできません。どうしても気になるようでしたらネストル様に直接お聞きください」
気のせいじゃなかったのね、と思った。ネストルが異様に恐れられる理由が何かある。ラフィーナは首を振った。少し気になっただけで、それを暴こうとは思わない。
「じゃあ氷月の方という呼び方についてなら教えてくれるかしら?」
笑みを浮かべてそう聞く。クレイトスは「ええ」と頷いた。
「氷月というのはネストル様の異名です。エリオス様は太陽、タリア様は花嵐と呼ばれています」
「聞いたことがあるわ」
誰かが言っていた。そうか、あれはあの二人を指していたのか。
「レガルディア帝国を照らし、導く。また、柔らかな微笑みと、温かな眼差しから太陽のエリオス」
確かにエリオスは暖かい。微笑みが優しくて、太陽という名はよく似合う。
「そこにいるだけで場の温度を下げてしまうような冷たさと、エリオス様の太陽に対をなす存在として、氷月のネストル」
納得して頷く。なるほど、よく特徴を掴んでいる。月の光のように静かなネストルにぴったりだ。
「そして花嵐のタリア。花が咲くように笑い、嵐のように場を乱すことから付けられたとも、戦場でタリア様の魔法によって花びらが舞い上がった様を見て付けられたとも、魔法によって花が散る様子から付けられたとも言われています」
「へぇ……」
相槌を打ち、隣を歩くクレイトスを見上げる。クレイトスは「なんですか」と微笑みを浮かべた。
「クレイトスは? 異名? っていうのないの?」
クレイトスにつけるならなんだろう、と考えてみる。何も思いつかない。クレイトスは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにふっと笑った。
「ありますよ。あまりいいものではありませんが」
「あら、なんて言うの?」
「エレンシアの犬、です」
エレンシアの犬。口の中で呟く。エレンシアはエリオス達皇族を指すとして……
「犬ってあれよね? さっき街でも見た4本足の」
ワンワンとかグルルルと吠えるあの動物。クレイトスが苦笑いを浮かべて「そうです」と頷いた。
「クレイトスが犬?」
顔をじっと見てみる。今日見た犬はキリッと鋭い目をしていた。クレイトスは優しい顔だ。似ていない。いや、だけど怒った顔だったら少し似ているかもしれない。
「ちょっと怒ってみてちょうだい?」
ラフィーナの言葉にクレイトスはくすくすと可笑しそうに笑った。
「外見の話ではありません。私がエリオス様やネストル様に忠実で従順であることを、主人に忠実である犬に例えて呼んでいるだけです」
そうなのね、と納得する。
「いいお名前ね」
そう言うとクレイトスは明らかに困ったような表情を浮かべた。
「先ほども言いましたがいい呼び名ではありません。犬というのは蔑称です」
ベッショウ……どういう意味だったかしら、と首を傾げる。「蔑んだ呼び方です」と答えがあった。
「申し訳ありません。余計な話をしましたね」
この話は終わりだとばかりに前を向くクレイトス。それでもラフィーナは納得がいかない。
犬とは忠実で従順で、主人を守って戦うこともあると本で読んだことがある。クレイトスが犬のようなら、どうして蔑称なのだろう。それを言った人が犬を蔑んでいるからだろうか。
「……犬に失礼だわ」
思わず呟きが落ちた。クレイトスがラフィーナを見る。ラフィーナも足を止めずにクレイトスを見上げた。
「きっとその方は犬に噛まれたことがあるのだわ。クレイトス、あなたの異名は褒め言葉だとわたくしは思うわ。犬はかっこいいもの。あなたもかっこいいもの」
そう言ってにこりと微笑む。クレイトスは目を丸くしてラフィーナを見た。驚いているように見える。
「……ありがとうございます」
少しして微笑みを浮かべたクレイトス。ラフィーナはそのお礼の理由が分からなくて、首を傾げながらも「ええ」と頷いた。




