40.花
「必ず迎えに行く、ラフィーナ。待っていろ」
はい、と微笑みを返す。優しくて大好きなお父様。お父様は嘘はおっしゃらない。お父様がお迎えに来られて、わたくしはあの離宮へ戻るの。イリスとお父様とお兄様。4人だけの静かな世界。
お掃除をしてお洗濯をしてお料理をして。静かで穏やかな時を過ごす。そこでは靴を履くことも求められないし、くすくすと囁く声もない。
わたくしの離宮。森の中の小さな箱庭。綺麗で穏やかなわたくしだけの世界。それがわたくしの幸せだわ、と笑みがこぼれた時、
ーー本当に?
心の奥から声が聞こえた。
ーーそこにはタリア様もエリオス様もクレイトスもいないのよ?
誰? と聞いたが返ってきたのは違う言葉だった。
ーーネストル様もいない。そんな世界わたくしは嫌だわ。
そこで目の前が急に明るくなった。
ハッとした。目を開けたそこは自分の部屋ではない。顔を上げると手元に視線を落とすネストルの横顔が見えた。
ほっと息をついて、不思議に思った。どうして自分は今ネストルの顔を見て安堵したのだろう。
低いテーブルの上に置いたカップに手を伸ばす。いつの間にか冷たくなっていたお茶が喉を通り、喉が渇いていたことに気がついた。首筋に触れるとしっとりと濡れている。汗をかいているようだ。
父が出てきた夢。前だったら嬉しくて幸せで、父の迎えを焦がれていた。だけど今は心がずっしりと重い。
「なんの夢を見ていた」
沈黙に寄り添うような声に、ラフィーナは視線を落としたまま答えた。
「お父様の夢を」
今にも消えそうな声だった。
「何故そんな顔をしている」
そんな顔と言われても自分がどんな顔をしているか分からない。分からない、と言ったらネストルはまた怒るだろうか。顔を上げると、ネストルの静かな目がラフィーナに向いていた。
なんと言えばいいのだろう。ざわつき、ひりつくこの心を。どんな言葉で表せるだろう。分からない。
「……お父様は迎えに来るっておっしゃったわ」
声が揺れた。
「だからわたくし、お父様がいらっしゃったらわたくしの離宮に帰るのだと思っていたの」
窓には格子が嵌められ、内からも外からも鍵がなければ開かない扉のあの離宮。帰ることを不満に思うことはなかった。だけど考えていなかった。その後のこと。
「あそこに帰ったら……帰っても、わたくしはネストル様と会えるの?」
どうか頷いて欲しい。また会えると言って欲しい。そうでなければ……そうでなければ……。
しかしネストルは静かに言った。
「……お前は会えると思うのか?」
問いかけのようで、否定の音を含むその言葉。喉の奥に吐き気を覚えた。ゆるゆると首を振る。
自分だってなんとなく分かっていた。あの離宮が自分を閉じ込める造りになっていること。父の許しがなければ誰かに会うことはできず、その父はきっと許しをくれないこと。
「ならば、わたくしは、どうしたらいいの……?」
小さく呟いた声は空気に溶けて消えた。じわりと視界が、ネストルが滲んだ。
「分からないの。わたくしがあの離宮で育った理由も、お父様がわたくしに何を望んでいたのかも。何が正しいのかも……考えても何も分からないの」
涙が落ちた。ネストルは考えろと言った。だから考えた。父のこと、離宮のこと、自分のこと。だけど何も分からない。
ネストルは何の感情も顔に浮かべず、ただラフィーナを見るだけ。息が苦しい。きっと泣いていることだけが原因じゃない。
少しの間見つめ合っていた。
「……正しいことなどない」
先に目を逸らしたのはネストルだった。
「俺はそれが正しいと思ったからお前をここへ連れて来た。兄上も同じだ。だがお前の父親からしたらそれは正しいことではない」
自分を帝国へ連れて来たネストルと、離宮から出したくなかった父。正反対の2人の正しさが同じになるはずもない。
「正しさとは何だ? より多くの人間が救われることか? 大切な人間を守ることか? 自分自身が幸せになることか?そのような人によって変わる曖昧なものを探す必要はない。お前はお前が思うままにあればいい」
ネストルの言うことはいつも難しい。だけど心にすとんと落ちる。いつだって真っ直ぐな目に射抜かれると世界が透けて見えるような気がする。何かが分かりそうな気がする。
汗が滲むほどには暑いのに、吸い込んだ空気が冷たくて、肺まで凍えてしまいそうで、意識せず呼吸が浅くなった。曖昧なものを探す必要はない。ならば、自分はどうしたらーー。
コツン、と足音が聞こえた。思考が途切れる。扉はまだ開かない。コツ、コツと足音が近付く。
「お前はお前のことを知らねばならぬ」
不意に静かな声が言った。自分へ向く真っ直ぐな目を見返す。どういう意味、と聞こうとしたが、口を開く前にノックの音が響いた。立ち上がる。
「それから」とネストルは続けた。
「この部屋に花は一つでいい」
ええ、と答えたが、その言葉の意味もよく分からなかった。花をもう一つ持って来い、という意味かしら、と首を傾げた時、扉が開いた。
クレイトスはラフィーナの顔を見て驚いたような表情を浮かべた。その顔を見てラフィーナは自分が泣いていたのだと思い出した。袖で涙を拭う。
「……お部屋に戻りましょう」
クレイトスの言葉に頷いて、ネストルを見た。ネストルは既にペンを持って何かを書いている。「おやすみなさい」と声をかけると、ネストルは目だけでラフィーナを見て、小さく頷いた。




