38.オレンジ
馬車が止まって扉が開くと、ラフィーナが口を開く間もなく、ネストルは無言で降り、歩いて行った。クレイトスに手を借りて降りながらその背中を見る。手にはちゃんとオレンジを持っている。
太陽に煌めく銀髪に目を細めていると、隣からくすくすと笑う声が聞こえた。不思議に思って見上げると、クレイトスは「いえ」と言いながらもやはり笑う。
「ネストル様が果実を持って歩く日が来るとは思わず……似合いませんね」
「そうなの?」
首を傾げながらもう一度そちらを見ると、ネストルの姿はすぐに扉の向こうへと消えた。確かにオレンジ色は鮮やかすぎてネストルにはあまり似合わないかもしれない。ふふっと笑いがこぼれた。
城の前に停められた馬車。街とは違ってここは静かで、少しほっとする。人の声も自分の声もちゃんと聞こえる。食べかけのりんごをクレイトスが布に包んでくれ、それを持ってラフィーナも城の中へと入った。
「そうそう、ネストル様はりんごは嫌いじゃないそうよ」
教えてあげないと、と思い、歩きながらそう言うとクレイトスは「おや?」と意外そうな顔をした。
「それはネストル様が?」
「ええ、これを食べて美味しいとおっしゃってられたわ」
両手で持った、包まれたりんごを少しだけ上げてそう言う。クレイトスは驚いたような表情を浮かべ、ラフィーナの顔をまじまじと見た。
「ネストル様が食べられたのですか? そのりんごを?」
明らかに疑いの眼差しを向けられ、ラフィーナは驚きながらも「ええ」と頷く。何か変なことを言ったのだろうか。思い当たる節はない。それが表情に出ていたのか、クレイトスはハッとしたように「すみません」と謝った。
「オレンジもいいけれど、両方買えばよかったわね」
そして自分の分のオレンジも買えばよかったと少し思う。次に行った時はいちごも食べてみたい。だけどその次はあるのかしら。クレイトスへ問いかけると、「もちろん」と返事があった。
「ラフィーナ様がお望みでしたら」
「だけどあそこは少し疲れるわ。あんなにも賑やかだとお話もちゃんとできないもの」
たくさんの人の声や言葉が波となって襲ってくるあの場所では、誰の言葉も紛れてしまう。クレイトスは微笑んだ。
「何度か行ったらきっと慣れますよ」
あの賑わいの中でちゃんと話ができるクレイトスが言うのだ。納得ができる。
ラフィーナは足を止め、窓の外を見た。燦々と輝く太陽。眩しさに目を細め、耳に残る喧騒に意識を向ける。人がたくさんだった。物がたくさんだった。離宮とも城とも全然違った。疲れた。初めてのことばかりで。でも、
「……楽しかったわ」
呟くととても柔らかな声が聞こえた。
「あれがエリオス様やネストル様がお守りになっているものですよ」
上げていた顔を下ろし、クレイトスに向ける。視界にぽっかりと黒い太陽が残っていて顔がよく見えない。
「エリオス様やネストル様が守る……」
きつく目を閉じて口の中で繰り返すと、クレイトスは「ええ」と静かに頷いた。賑やかな街。笑顔溢れる人達。瞼の裏に浮かぶ。あそこにお二人の心があるのかしら、と思った。
目を開けると太陽の影は少し薄くなっていて、再び歩き出す。廊下を歩く侍女達が立ち止まってこちらへ頭を下げる。それを見ながら、ラフィーナは気が付いた。
前まで部屋を出るたびに聞こえていた嫌な言葉が聞こえない。思えば城を出る時もなかった気がする。きちんと靴を履いているからかしら、と思う。靴一つでこんなにも変わるとは思わなかった。
視線を落としてネストルにもらった靴を見る。シンプルなそれはラフィーナの足を全く痛めつけない。
「よくお似合いです」
その言葉に顔を上げる。どうやらクレイトスも同じものを見ていたようだ。
「そのように真っ白な靴だと汚れが目立つと進言したのですが、ネストル様は絶対に白だと言い張ってられたんです」
やはりネストル様のお目は確かですね、とクレイトスは微笑んだ。ネストルがくれた靴。まさか選ぶところからネストルの手が入っているとは思わなかった。
「……わたくし、ちゃんとお礼を言ったかしら?」
色々な話をして、靴を履かせてもらって、街へ出た。お礼を言った覚えがない。言っていない気がする。
「クレイトス、今からネストル様のところへ行ってもいいかしら?」
「お礼でしたら今度でいいと思いますよ。ネストル様はそんなことを気にする方ではありません」
そうかもしれない、と思う。ラフィーナがお礼を言っても、きっとネストルは変わらない表情でひとつ頷くだけだろう。だけど言いたい。だって「ありがとう」は言っても言われても胸があたたかくなるから。ばあやも言っていた。「ありがとう」はちゃんと言いましょうね、と。
何かが顔に出ていたのだろうか。クレイトスは穏やかな笑みを浮かべて「それなら」と言った。
「今夜お迎えにあがってもよろしいですか? 夜でしたらネストル様もお時間が取れると思いますので」
「ええ……!」
自分で思ったよりも明るい声が出た。クレイトスがふふっと笑い、顔が熱くなる。それを隠すように前を向いて、誤魔化すように話を変えた。
「ところでどうしてクレイトスはあそこにいたの? わたくしとネストル様がお城を出た時はいなかったわよね?」
馬車の外の光景に驚いてそれどころではなかったが、それも不思議だったのだ。
「ネストル様が騎士へ伝言を残しておられましたので」
なるほど。また魔法かと思ったが、どうやら違ったらしい。
部屋の前に着くと、クレイトスは微笑み、声を落とした。
「では夜にまた伺いますね」
口の前で人差し指が立つ。内緒、ということだろうか。
「ええ」
ラフィーナも了解を表すように人差し指を口の前で立て、微笑みを浮かべた。一人で部屋に入る。イリスはいない。
馬車に乗っていたのも、街に滞在したのもそう長い時間ではない。いわばさっき部屋を出たと言っても過言ではない。だけどすごく長かったような気がする。椅子に座って靴を脱ぐ。足は全く痛くない。靴下を脱いでみても赤くなってもいない。すごいわ、と思う。まさか靴でここまで変わるとは思っていなかった。
足が痛いなんてネストルには言っていないはず。どうして分かったのだろう。
ふと机の上の白い薔薇が視界に入った。あれからもう何日も経つというのにまだ綺麗に咲いている。思わずふふ、と笑みが漏れた。ネストルも自分があげた花をこうして見ているのだろうか。
そうだったらいいな、と思った。




