37.りんご
周りから感じる好奇の視線と言葉にクレイトスが気が付いていないとも思えない。無視をしていればいいということなのだろうか。
隣を見上げると、クレイトスは屈んでラフィーナに近付いた。
『何か欲しいものはございますか?』
耳元でちゃんと聞こえた言葉に、ラフィーナはきょろりと周りを見た。欲しいものと言われても見たことがないものばかりで、何が欲しいのかなんて自分でも分からない。
少し迷ってラフィーナは果物の露店を指した。見たことも食べたこともあり、分からなくないものだったから。クレイトスが笑みを浮かべ、ラフィーナの背にそっと触れた。その手に促されるように歩き、店の前で立ち止まる。
目の前にたくさん並んだ果物を見て、ラフィーナは目を丸くした。いちご、りんご、オレンジ、見たことのない果物。種類の多さもそうだが、同じものがこんなにもたくさん並んでいるところは初めて見た。
果物といえば、いつの間にか離宮に置いてあった小さな木箱と、レガルディアに来てからの皿に盛られた物しか知らない。
『お店ってすごいのね……』
呆然と呟くと、クレイトスが『店ですからね』と可笑しそうに笑った。視線を上げると店の人と目が合った。小太りの中年の男。彼はラフィーナを目の前に固まっている。
『ラフィーナ様、どちらを買われますか?』
ラフィーナは店主からクレイトスへ視線を移し、そして並んだ果物を見た。こんなにあると選べない。
『何がいいかしら?』
誰にともなく呟く。答えを求めたわけではなかったが、それに答える声があった。
『こ、こちらのりんごがおすすめです』
硬く強張った声だった。顔を上げると、店主がぎこちない動作でりんごを示していた。
『よ、よろしければ、お味見を……どうぞ!』
差し出されたりんご。どうすればいいのか分からなくてラフィーナも固まっていると、横から手が伸びてそれを受け取った。
『食べてみてください、と。どうぞ』
今度はクレイトスから差し出されたりんごを恐る恐る受け取る。食べてもいい? これを?
『お店の物はお金と交換するのではないの?』
『店の方がいいとおっしゃっているので大丈夫ですよ。食べて気に入ったらたくさん買って帰りましょう』
『そうなのね』
ラフィーナは店主へと視線を向け、『ありがとう』と微笑んだ。店主は『はい』とやはり硬い声で応えた。
『あ、すみません、そのままでは食べられませ……』
りんごを小さく齧るのと、店主がこちらへ手を伸ばしたのが見えたのは同時だった。あ、と思う。これは切ってもらうべきだったのだろうか。離宮にいた時は切らずにそのまま食べることもあったので、つい齧ってしまった。
失敗してしまった。店主に負けずぎこちなくクレイトスを見上げると、クレイトスは何か言った。聞こえない。じっと見つめるラフィーナに今度は微笑みが向けられた。大丈夫だということか。改めてもぐもぐと口を動かす。
しゃりしゃりとした食感と、口の中に広がる甘く、みずみずしい果汁。思わず笑みが浮かんだ。
『お気に召したようですね』
『ええ、すごく美味しいわ』
もう一口齧る。クレイトスは『では買いましょう』とどこからか財布を出した。りんごを齧りながら店主とクレイトスの会話を眺める。音の渦の中で2人の声は飲み込まれる。会話が終わると、クレイトスはラフィーナに微笑み、少し屈んだ。
『後で城へ届けてくださるそうです』
『お店はそんなこともしてくれるのね』
クレイトスはお金を渡していた。今ここで交換するものだと思っていた。クレイトスに色々教えてもらっていたのに、それでもまだ知らないことばかりだ。
ラフィーナはふと、手の中のりんごを見た。こんなに美味しいのだからネストルにもぜひ食べて欲しい。くい、とクレイトスの袖を引くと、クレイトスは視線を落としてラフィーナを見た。
『ネス……』
ネストル様、と言おうとして、名前は出してはいけないと言われたことを思い出した。
『あの方にも買ってあげたいわ。こんなにも美味しいのですもの』
しかしクレイトスは少し困ったような笑みを浮かべた。聞こえなかったのかしら、と思ったが、そうではなかったらしい。クレイトスが言った。
『……そうですね。ですがあの方はりんごは好みません。オレンジの方がいいかもしれません』
『あら、そうだったの』
クレイトスは『ええ』と頷きながらいくつかの硬貨をラフィーナの手に置いた。
『ラフィーナ様が買われたら方がきっとあの方も喜ばれます』
チャリと手の中で感じる硬貨の音に、ラフィーナは不思議な気持ちでオレンジを見る。こんな小さな金属にオレンジの価値があるなんて。
『オレンジをひとつもらえるかしら?』
少し緊張しながらも硬貨を差し出すと、店主もまた緊張したように硬い表情でそれを受け取った。
『お、お好きなのをどうぞ』
これは好きなものを取っていいということよね、と考えながらひとつ手に取る。日の下でつやつやのオレンジの皮が輝いた。
『ありがとう』
初めて買い物をした。緊張から解放されたからか、その喜びからか、頬が緩む。『こちらこそ』と店主の赤い頬が見えた。
『では馬車へ戻りましょうか』
クレイトスがラフィーナの耳元でそう言い、ラフィーナはオレンジと齧りかけのりんごをそれぞれ手に持って踵を返した。歩き出そうとした時、クレイトスが振り返った。どうやら店主に呼び止められたようだ。
『あ、その方は、皇族の方ですか?』
恐る恐ると言った声が聞こえた。今度は意識をクレイトスに傾ける。クレイトスはそうだともそうでないとも言わなかった。
『他国から来られた方です』
だだそう言って微笑んだだけ。『行きましょう』と促されて、今度こそ店を離れた。そう遠くないところに馬車はあり、クレイトスの手を借りて乗る。扉が閉まると喧騒が少し遠ざかり、ほっと息をついた。
ネストルはラフィーナが馬車を降りた時と同じようにそこに座っていた。何を言うべきかと考えていると、先に問われた。
「どうだった」
静かな声。きっと外ではネストル様の声は聞こえないわ、と思う。
「すごかったわ。人がたくさんいて、とても賑やかで……。わたくし、クレイトスに色々教えてもらっていたのに、何も分かっていなかったのね」
そう言って手に持ったオレンジを差し出すと、ネストルは僅かに眉をひそめた。
「本当はりんごを買おうと思ったのだけど、ネストル様はりんごはあまりお好きではないとクレイトスが言ったから」
美味しかったからぜひ食べてもらいたかったのだけど、と言うと、ネストルはオレンジを受け取り、座面に置いた。そしてまたラフィーナへ手を伸ばす。なんの手だろう。オレンジは1つしか買っていない。足りなかっただろうか。首を傾げる。
「……別に嫌いなわけではない。寄越せ」
その言葉に齧りかけのりんごを見る。クレイトスも間違えることがあるのね、と思いながら首を振った。
「これは齧ってしまったの。ネストル様も食べるならもうひとつ」
言い終わる前に手の中のりんごの重さがなくなった。ふわりと宙を浮いて、ネストルの手の中におさまる。あ、と思った時にはネストルが齧っていた。
再び浮いて戻ってきたりんごを両手で掴まえる。自分も何度か齧っていたのでネストルがどこを食べたのかは分からない。だけどネストルの口は動いている。
「……美味い」
その視線はラフィーナへ向いていなかったが、それが自分へ向けられた言葉だとは分かった。少し驚きながらも「そうでしょう」と返事をすると同時にガタン、と馬車が動き出す。
やっぱりネストル様の分も買って来たらよかったわ。そう思いながら、ラフィーナはりんごを齧る。甘さが口の中に広がった。




